0人が本棚に入れています
本棚に追加
1
花を知るには花になるのだ。一片の花となりきって、花となって花を開き、花となって太陽の光を浴び、花となって雨に打ち濡れるのだ。これが出来て初めて、花が私に語りかけてくれる
鈴木大拙
僕は黒髪の乙女を令和4年9月5日に初めて見た。それは僕が大学に入学してから一年と5ヶ月と五日経った日であり、小倉二歳ステークスで新種牡馬グレーターロンドン産駒のロンドンプランが見事な差し切り勝ちを収めた次の日だった。
その日の昼休みに、僕は大学の近くのカフェ「ミエル」の入り口近くのテーブルで、ランチのパスタを食べていた。そして食後に出されたアイスコーヒーを飲みながら本を読んでいると、二人の女性が一緒に店に入ってきた。一人は明るい金色の長髪で、スタイルの良さを全面に出すべくしてあるような、実に表面積の狭い服を着ている女性だった。そしてもう一人は綺麗な黒髪によく似合う短髪で、170㎝とはいかないほど身長にシンプルな青いワンピースを着ている女性だった。黒髪の女性は入店の手続き(と言っても人数を言うだけだが)を全てもう一人に任せ、自分はカフェの雰囲気を見渡していた。僕は不良と優等生のような二人が一緒にいる光景が興味深いと思い、観察していた。すると黒髪の女性と目が合った。彼女は微笑んで僕の方を見た。僕はすぐに目を逸らした。そして僕はなんだか自分がやっていた事が悪いことのように思えたので、急いで半分残ったアイスコーヒーを飲み干し、お代を払って店から出た。それから黒髪の乙女にまた再会するのはずっと先のことである。
◯
黒髪の乙女を見るまでの僕のこれまでの大学生活は陰鬱なものだった。講義ではいつも前から4列目くらいの位置に座り、誰にも頼らずノートを取った。気が向かない日はサボって有楽町に映画を見にいった。はっきりと言うと、僕は充実した大学生活なんてものとは、かけ離れた学生生活を送っていた。いわゆるサークルに入り、友人を百人作り、彼女を作り、セックスをするという一般的な大学時代の充実とはかけ離れていた。まるで定年退職し一人寂しく隠居生活をしている老人のようだった。
しかし僕にだって上記のような華の学生生活を夢見た時期はあった。だが現実世界での人間恐怖症と斜に構え人を小馬鹿にする性格というどうしようもない社会不適合者では、そう易々と大学生活に馴染むことはできなかった。そんな僕が勇気を振り絞り入ったサークルは、おそらく同類が多いであろうと踏んだ「結社クレアーレ」だった。このサークルは非公認サークルであり、学祭の時期になるとSM文学作品やリョナ文学作品、BL文学作品などのおよそ常人では理解できない趣味全開の同人誌を発行していた。それを各ブースに置いてやたらめったら学生やその親御、見物に来た高校生に配っていた。入学当初、僕は数々のサークルの新歓を渡り歩き、まともな青春など送れるはずがないと気がついた。そうした絶望と諦観のなかにいた僕にとって、同じく常人に理解されない彼らの活動は魅力的に見えた。
しかし彼ら結社には実体というものがなかった。彼らの活動はもっぱらネット上であり、現実の集会すらなかったのである。仕方がない、僕はそれまでほとんど触れてこなかったSNSをインストールし、彼らとコンタクトを取り、オンライン会合に侵入した。そして僕はまた、どうしようもない現実に直面した。彼らはどうしようもなく俗物だったのだ。彼らの「活動」とは毎日オンライン会合を開いてはその日あった事やお風呂に何日入ってないなどの他愛もない世間話をすることだった。そこに新入生でかつコミュニケーション障害の僕が付け入る隙はなかった。こうして僕が出席したオンライン会合は実に一回のみであり、3ヶ月後に何者かが結社のLINEグループを爆破したことによって僕は自然的にサークルを跡にすることになった。立つ鳥跡を濁さずと言うが、濁さないどころか鳥が立ったことすら誰も気がつかない始末だった。こうして僕の現在にまで至る不毛かつ孤独な学生生活が始まった。
僕とて大学生活において一度も色恋沙汰が無かったわけではない。僕は一年生の冬にもう大学内ではどうしようもないと踏み、元高校のクラスメイトといい感じになった。彼女は高校の時から仲が良く、専門学生だったので残り少ない学生生活を謳歌しようと必死だった。我々はそれぞれの淋しい学生生活をどうにか補おうとした。彼女とのガールフレンドと友人の間の微妙な関係性を維持しつつデートを重ねた我々だったが、5ヶ月目についに亀裂が入った。そのきっかけは僕がデートに二時間寝坊したせいであり、この事件の後一回会ってそれきりになった。僕は大学一年の秋冬を彼女に費やし、その甲斐虚しく(もっとも自業自得だが)また独りになった。僕は大変悲しみに暮れ、心の傷を癒すのに半年かかった。僕は本当に彼女のことが好きだったし、彼女のためならばなんでも出来た。僕は心の傷を癒す過程で何度も彼女のことを思い出し、そして泣いた。彼女の嫌いだったタバコを覚え、やけ酒を飲んだ。満たされない心を満たすためにギャンブルもした。多くの金を馬に注ぎ込み、得られたものは虚しさだけだった。しかし喧騒の日々を過ごすうちに僕は段々と彼女のことを忘れていった。
それからの僕は明らかな堕落の日々を過ごしていた。女のいない男に残るものは、酒とタバコとギャンブルである。これらのほとんどを僕に教えた悪魔がいる。その名を江戸川と言う。彼は僕の同郷の仲であり、生粋のギャンブラーだ。
「おい、この前のレースはどうだった?」彼は会うごとに競馬の話をしてくる。
「この前のレースは賭けてない。今は金欠なんだ。」と僕は言った。
「おいおい、金がない時こそするもんだろ」と彼は悪魔の笑いをしながら言う。
「はいはい。それでどうだったんだ?」
「本命は当たっていたんだけどよー、紐で外した。50万取り損ねたぜ」
これで江戸川の収支はマイナス11万9700円になった。
江戸川は東京に出てきた唯一の同郷の友人である。こいつはこんなに堕落した日々を送っているのに、僕よりもかなり頭の良い大学に入学した。どうせ裏金か何かで入学したに決まっていると僕は確信している。
江戸川がはまっているギャンブルは競馬だけではない。パチンコに競輪、ボートレースはたまた賭け麻雀までありとあらゆるギャンブルをし、金を吸われている。どこから金が出てくるのか不思議だった。莫大な額の仕送り金をもらっているとすれば、おそらく江戸川の親は大麻などのクスリを売っているか、臓器を売買するか、どちらにしても裏社会の人間であるに違いない。
さて、話を戻そう。
最初のコメントを投稿しよう!