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むかしばなし
夜のなか、男の声が反響した。
「この大庭園の主の目を盗んで、この場所を見つけた幼い子が、あなたのお嫁さんになるのと抱きしめてくれたことがあった。星の綺麗な夜のことでね。庭園主の縁者であったから、その家はそれなりの家格ではあってね。姿が見えない、誘拐されたのではないかと、屋敷は大騒ぎだったらしい」
広大な敷地を持つ庭園の、無数の櫃が乱雑に詰まれている造られた岩窟のなかで、蜜蝋に灯されたゆらめきがひとつ、奥まったところにある櫃の上で揺れている。
「どのくらい前のことですか」
問いかける男の声は、はじめに響いたものよりは若い印象だった。灯火のさざなみを浴びながら、手燭と並ぶようにして櫃に腰掛けている青年のものだ。はじめに声を響かせた、灯火を挟んで置かれているものは、豊かな襞の重なる黒い薄布によって隠されていた。天鵞絨ほど艶めかない、重苦しく仰々しい襞の影から金皿の煌めきがのぞいている。その黒は、天球儀を隠しているようでもある。
青年が聞いたところによると、この庭を造らせた最初の庭園主が、櫃に充たされたこの岩窟を思索の場と定めた。この庭は、誰かと共有する庭ではないのだと、庭園主の名を轟かせるための大庭園のなかに隠された、主のためだけの簡素な庭であるのだという。確かに、最初に案内された時、この場所は外からは林にしか見えなかった。緑に埋もれた、大庭園の一部。それがこの庭だ。
この庭の存在を他者に知らせなかったその者が、この岩窟における装飾品にふさわしいよそおいをと、このしゃべるものに黒を与えたのだという。
「最初の庭園主が亡くなってから、その子孫がこの庭園を継いで、今では棺のなかで眠っているくらいには、前のことになる」
頭巾を目深に被り、麻袋のようなゆったりとし服をまとう聞き手の唇が、かすかに動いて、結ばれた。
「そんなものだろう。私も、おまえも、その点については、そう違わないはずだ」
青年のかたちをしたものを気遣うように、声が響く。
「夜空は晴れているか」
「もう勤務時間外です」
「おまえが、だろう。それにもかかわらず、私のはなしを律儀に聞いてくれる物好きでもある」
「夜風に当たりたいのですか」
「おまえならば夜目が利く。灯りがなくとも夜を歩ける。この時間であれば、庭師たちに見つかることもないだろう」
苦笑しながら青年は腰を浮かせ、注意深く、両手で金皿を持った。そのまま岩窟を抜け、庭に出る。樹木のざわつきと土の香につつまれる。林のようなちいさな庭は、そのまわりを壁のような背の高い木々に囲まれていて、その外側に広がる趣向を凝らした壮麗さと威容とを主眼においた大庭園とは隔絶されていた。
「綺麗な星空ですよ」
青年が夜空を見上げた。風に飛ばされないように黒の襞を押さえながら、青年は金皿にあるものの視界をひらく。
「夜風はいかがですか」
痩せた男の生首が、まばゆそうに目を細めた。まばゆそうに見えたのは錯覚で、懐古に溺れていたのかもしれない。顎と首の根の間で毛先の遊ぶ、細い巻き癖のある濃い金茶の髪を、夜風が揺らしていった。
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