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気が付けば、私はとんでもない田舎に来てしまった。点々と家があるだけで、屋敷が一つだけ見えるだけだ。
「お客さん。ずっと寝ていらっしゃったみたいですけど、降りなくてよかったんですかい?」
「あ、ええ……。遠くへ行きたかったから……」
そんなのは嘘である。本当ならば、隣国へでもわたってやろうかと思っていたのだけれど、それも当てが外れてしまった。どうしてこんなことになるんだろう。
「それで、運賃。払えるんでしょうね?」
私は困惑してしまった。そういえばお金が必要だったのに、私は考えもなしに馬車に乗り込んでしまった。代わりとなる装飾品も私にはない。それを売って公爵家の財産としていたのだから。
私が困り果ててしまい、いぶかしげな表情を浮かべる御者。そんな二人の元に、一人の青年がやってきた。
「ああ、彼女は私の知り合いだよ。お金はこれで大丈夫かい?」
「ああ、シンさんの知り合いでしたか。へぇ、十分ですよ」
農家の人だろうか。私は降車を促され、状況を理解する暇もなくシンという青年の元へ降り立った。同時に乗合馬車は方向転換して、そのまま去っていく。
「危ないところでしたね」
「え、あの……その……私、払ってもらう義理なんて」
「いいんですよ。私が好きで払っただけなんですから。私はシン。お嬢さんのお名前は? 見るところによると貴族みたいですけど」
「……私はアヴェリー。貴族だった、ものです」
私はなんだかこの青年に心惹かれる思いだった。それは助けてもらったという安心からかもしれないけれど、しばらくはその気持ちに体をゆだねておきたいと思った。
シンという男の人は農場を営んでいた。自分でも開墾を進めていて、土地を広げているらしい。私はこのシンに助けられ、家に上がらせてもらうことにした。
シンは他の農民のように焼けた肌に、ワインレッドの瞳が印象的な人だ。体格も立派で、がっしりとした爽やかな青年だった。しかしどこか気品がある気もして、どこかの貴族だったのだろうかとも思った。
ここの地主なのだろうか。だとしても家族がいないのは少し不自然な気もしたけれど。ともかくのどかに暮らしている様子はうかがえた。
お茶をいただいた私は、ほっと一息をつくことができた。正直張りつめていた緊張が解けたようで、気を抜けば脱力してその場に倒れこんでしまいそうだった。
「さて、アヴェリーさん……でいいかな」
「いいですよ。どうせもう追放された身ですから」
「とりあえず、お茶をもう一杯どうぞ。何にもない家ですが、ゆっくりしてください」
シンは優しく微笑んで、ティーポットから杯にお茶を入れてくれた。普段はお酒を飲むためのものなのだろうけど、温かくて美味しかった。私はそれだけで涙が流れそうになる。
「……よほどおつらい目にあったんでしょうね」
「え?」
「涙を流すのを必死に我慢してらっしゃる。それが私にわかるほど体が震えてますよ」
「あ……その」
そう指摘されると、私はもう涙を止める事ができなかった。なんであんなに一所懸命にやってきたのに、追放なんて目に遭わなければならなかったのか。すべてを捨てて楽に慣れたと思ったのに、どうしてもつらくて仕方なかった。
そんな私の体を、シンは優しくさすってくれる。こんな優しいことされたのはいつぶりだろう。8歳のころ義妹が来てから、ずっと蔑ろにされていた気がする。
「すいません、本当に」
「いいんです。存分に泣きなさい。その涙があなたを救ってくれますから」
それから私はわんわんと大きく涙を流してしまった。貴族ならば咎められるところだけれど、もはやそんなこと気にしているような状態だった。私は机に突っ伏し、時には乱暴に叩いて、悔し涙をずっと流していた。
気づいたころにはまた朝になっていた。私は寝台で寝かされていて、窓から差す朝日に目をくらませました。寝台の下では掛布団一枚で寝ているシンの姿があって、私は思わず自分を恥じてしまった。家の主を床で寝かしてしまうなんて……私はあわてて起きて、シンの体をゆすった。
「あの、シンさん」
「ん……ああ、おはようございます。昨日は泣き疲れて、眠ってしまったようでしたから、二階の寝室に勝手に運ばせてもらいました。すいません」
「いやいや、私のほうが謝るべきです。申し訳ございません、いきなり押しかけておいて……」
「いいんですよ、女性がただ一人こんな辺鄙な場所に来るなんて尋常じゃなかったですからね。よく眠れたのならばよかったです」
私は彼のやさしさにふれ、自分の恥ずかしさのあまりに顔が火照ってきたのに気付いた。本当、この人は良い人すぎる。私がどんな人間かもわからないのに、優しさで包んでくれる。
「じゃあ、食事にしましょうか。今準備しますね」
「あ。あの!」
私はここぞとばかりに言った。
「できることがあれば、私にも手伝わせてください!」
一瞬シンは呆けたような表情を浮かべていたけれど、すぐに笑みを浮かべて「ええ、もちろん。よろしくお願いします」と言ってくれた。
それから私は、この農家の手伝いをすることになった。さすがに力仕事はできないから、洗濯とか家事とか。時には陶器を作ることも教えてもらって、才能があると褒められてしまった。今私が洗っている皿は、私自身が作ったものだ。
シンは他の農民たちと一緒に開墾の作業をしているようだった。率先して動いて汗を流し、畑を増やしていっている。時には木こりのように斧を持って森に出かける事もあった。
その時の弁当を私が作ったりして、彼においしいと言ってもらえるのが何よりの喜びだった。私は本当に幸せな日々を送っていた。
そういえば、帳簿のつけ方なんかもここで役に立った。いろんなものに帳簿をつけていったら、シンに「すごいね!」と言われてしまった。その時は恥ずかしくて変な顔をしてしまったに違いない。
時には一緒に外でご飯を食べていた。
夕日を見ながら、私はもう一年も前になる、イリヴェス公爵との婚約破棄のことをふと話してしまった。シンは食事の手を止めて、真剣な表情を浮かべて私の話を聞いてくれた。そのせいか、わたしはいろんなことを話してしまった。私がつけた帳簿が金庫にしまってあって、そのカギを今でも持っていることとか。
「そんなに貢献していたのに蔑ろにして、あまつさえ浮気をして……か。最低な男だな、そのイリヴェス公爵というのは」
「いいのよ、もう。私にはどうでもいい思い出だわ。妹たちがどう暮らしていようと、どう金を使っていようと、勝手にしろって感じよ」
「……そうか。だと言いのだけれど」
「それにシン。私は今、あなたのことが好きよ。一年の暮らしだけど、あなたが周りの人のことを思って、周りの人に愛されているのを知っている。」
「……そっか」
「シンはどう思っているの? 私じゃ、やっぱりだめ?」
「そんなことはないよ。……私も心から愛している。君がいてくれてよかったと思う」
シンのその言葉を聞いて、私の心が安心したのに気が付いた。愛されなかったことが、こんなにもつらいことだなんて、今まで気づかなかった。だからこそ、シンに愛されていたことがとても嬉しくてたまらなかった。
私はシンの体を抱きしめ、そして顔を合わせた。唇を近づける。もう少しで触れ合う。
「おい! シン! オオカミが出たぞ!」
「あ、え!? 本当か! ごめん、アヴェリー。また今度ね」
「え、もう! ……行っちゃった。キスはお預けかぁ」
私は少し不服そうに頬を膨らませた後、子供じみているな、と自嘲して笑ってしまった。私は置きっぱなしになっていた食器を片付け、家に戻る。
こんな日々がずっと続けばいいと思っていた。笑いあって、時には喧嘩もして。仲直りして。平凡だけれど、それがいい時間だと思っていた。
ただ、時々だけれど、シンのことがわからなくなる時がある。たまに来客があって、その時は私に席を外すように言ってくる。何か隠し事しているのかな、と思って一度覗き込んだ時は、かなり深刻な表情を浮かべているのを見てしまった。
シンがあれだけ悩むことは珍しいと思っていたから、私は心配になってそのことを切り出そうと思っていたのだけれど、シンは「昔の友人だから」と言ってごまかしている。そこまで信用されていないのかな、と思ってしまう事もあって、私は時々寂しさも感じる。
でも、人には隠しておきたいことだってあるんだと思うから。私は深く追求するつもりもなかった。いつか話してくれるだろうと楽観的に考える事にもした。
それがこの一年で私が学んできたことだと思う。
そういえば、イリヴェス公爵家の金庫の鍵をどこかに失くしてしまったけれど……もう関係ないよね。
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