最後の散歩を愛犬と

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 鳴り響く目覚ましのアラームが、青年の頭痛を悪化させた。  アラームを止め、有給消化日だからと二度寝する。  遠くで音が聞こえる。鋭利な刃物が床を引っかくような音。音は近づき、ベッドが揺れた。  それはうつ伏せで眠る青年の背にのしかかる。うぐ、と息が詰まる寸前で呼吸が楽になった。そうかと思えば、今度は脇腹あたりに圧迫感を覚える。  寝返りを打つと同時に布団をはぐ。  しば犬のポチがベッドに入り込んでいた。 「おはよう、ポチ。頭が痛いんだよ。気圧のせいかな。……ポチ? 生きてる?」  見つめていると、ポチの寝息が聞こえはじめた。  青年はベッドからこっそり抜け出し、頭痛薬を飲んだ。  先週からポチの食欲不振が続いている。  食べやすいようにやわらかいごはんを作り、元気そうな日は少し散歩もさせた。それでも先週は半分残し、今週も食欲は戻らず、昨日はいっさい食べなかった。  動物病院に連れていっても原因は特定できなかった。先生は「病気ではないからストレスかもしれない」と言った。  もしかしたらこのまま……、と青年は嫌な未来を想像し、首を振る。 「飼い主が弱気じゃいけないな」  ベッドに戻る。薬が効いてきて、青年は少しの間まどろんだ。  職場と家の往復だけの日々に、流行り病の拡大による自粛生活で追い討ちをかけられていたとき、親戚から半ば強引に押し付けられた子犬だった。  お迎えのために慌てて掃除した日から今までのこと、断片的にだが覚えている。  新しい家を怖がる姿。  ポチと呼んで反応した瞬間。  割引の刺身をポチが勝手に食べたとき。  走るポチについていき、息が上がった日の青空。  どの記憶も暖かく、夢と現実の境目を失っていき、――痛みで起きた。  時刻は正午を過ぎていた。  ポチのごはんを用意したあと、目覚まし代わりにテレビをつけた。情報バラエティー番組のアナウンサーが元気よく話している。 『全国各地、秋らしい季節になってきました。紅葉シーズンでもあるこの季節ですが、コスモスも見頃の季節なんです。そこで本日はコスモス特集です!』 「コスモスか」  携帯で検索した。車で20分程度のところにコスモス畑があることがわかった。 「ポチ、散歩いく?」  散歩の言葉を耳にしたポチは、パタパタと青年の周辺を歩き回る。決まりだ。  黒のデニムパンツにオリーブ色のカラーシャツに着替える。  家を出る前、ポチの皿をのぞいた。皿の中のドッグフードは更地のようで、口がつけられていない証であった。  ○  青年はポチを車に乗せ、隣町までやってきた。  近くのコンビニでミネラルウォーターを買い、ショルダーバッグに押し込んだ。  車内で待つポチは尻尾を元気よく振り、はやく連れていけと言わんばかりである。  目的地近くの駐車場に停め直し、散歩がはじまった。  車から降りると、ポチはさっそく走りだした。リードはピンと張り、青年の足も自然と速くなる。スニーカーにしてよかった、と思いながら小走りした。  車道の両脇は農地が広がる。手入れされた農地もあれば、ススキが気ままに伸びる農地もあった。空は広く、解放感がある。  ケーキ屋を曲がれば目的地らしい。前進するポチを誘導し、角を曲がる。   「はあ、まじか」  青年は感嘆の声をこぼした。  赤やピンク、濃紫のコスモスが太陽の下で風とともに揺れ、畑一面に彩りを与える。  青年は立ち止まり、携帯でポチとコスモスを写真におさめた。  ポチは虫に驚いて頭を振った。が、すぐに虫にも慣れてコスモス畑の中に入ろうとする。 「待って、ポチ。入るのはダメ」  くぅんとポチが鼻を鳴らした。  何度も走っていこうとするポチを止めながら、コスモスを眺め、ときどき写真を撮りつつ散策した。  穏やかな時間が流れる。  連れてきてよかった。家でぐったりしていたポチも走り回っているし、今日こそ食べてくれそうだと、青年は希望を見た。  帰りはケーキ屋に寄った。 「いらっしゃいませ」  ――食べたい。え、ケーキを? 今から選ぶのに?  青年は自分の気持ちに戸惑いながら「え、っと、モンブランひとつ」と注文する。 「かしこまりました。ところで、お客様はもしかしてコスモス畑を?」 「え? ええ。さっき見てきたところです」  青年の胸中を知らない店員は、顔をしかめながらケーキを選ぶ彼と、店の外で尻尾を振るしば犬を見、話しかけた。 「きれいですよね。私も通勤中、毎日見るんです」 「素敵ですね」 「本当に! お客様、よろしければこちらの紅茶クッキーもいかがですか。奥まで行くとベンチがあって、コスモス見ながら食べるのもいいですよ」  と目を輝かせる店員。 「大変魅力的な提案ですが、あいにく先ほど見ましたので……」 「ベンチから見る景色はまた違っていいですよ。私にはわかります、わんちゃん、まだ散歩したがってます!」 「そ、そうですか……。ではクッキーもお願いします」 「ありがとうございます! モンブランのほうはこちらでお取り置きしておきますので、帰りに寄ってください」 「わかりました」  言われるがまま青年はクッキーを受けとり、ポチと再びコスモス畑へ向かった。  コスモス畑を横目に歩いていくと、たしかに真っ白なベンチが置かれていた。  青年はベンチに腰を下ろし、クッキーを摘まんだ。  口に放り入れると、せき込んだ。  もう一度クッキーをかじる。だが、また吐き出してしまう。 「なんだ……?」  まるで味がない。  突然痛みが走る。ズボンの裾をめくると、かまれた跡があった。 「怪我で味覚異常がでるのか?」とぶつぶつ言いながら、頭の片隅では親戚と一緒に観たホラー映画を思い出していた。 「わん!」  見上げるポチの瞳は、ごはんを出されたときよりずっとイキイキしている。  仮眠中に目覚めるほどの痛覚。  店員の前で感じた衝動。  そこから浮上する、ひとつの仮説。 「ポチ、お前、ゾンビなのか?」 「わん!」  ポチはコスモス畑のほうへ駆けていった。  ああ。ため息に続く言葉はない。  青年は、かまれたほうの足を引きずりながらコスモス畑をかき分けていく。  花の蜜とポケットに入れたクッキーの香ばしくも甘ったるい香りが気持ち悪い。店員のほうがよほど、――思考を振りきってポチを捜す。  秋風にあおられ、青年はコスモス畑に身を沈めた。  日は落ちはじめていた。  腹が鳴る。脳裏をよぎるのは店員の首筋と血管の奥に潜む匂い。胸を焦がし、苦し紛れに花を食んだ。空腹感は誤魔化せるものの、咀嚼(そしゃく)するたび戻したくなった。  人なのだから、人を食べてはいけない。  プライド。意地。エトセトラ。捨てれば楽になるとわかっていて、だけど捨てたくなかった。目を閉じ、よく味わった。  また、冷たい風が吹く。  襟をかきあわせ震えていると、顔に温もりを感じ、目を開けた。  ポチが青年の顔をなめていた。 「おいで」  伏せるポチに身を寄せる。 「なあ、ポチ。この命は、お前にやるよ。腹が減ったら食べてくれ。おれは食べたくないからさ」  鼻を鳴らすポチに、はにかんだ。 「大丈夫。そばにいる。飼い主のできることなんて、それくらいだろ。まったくやるせない話だけど……。おれもゾンビになったら食べあうことはないかな。それでも、これからどうなる。おれはお前をポチだと認識できるのか? 世間からは脅威そのものにされるのか? 嫌だな。それは、とてもさみしいことだ」  青年の表情は固くなり、おもむろに、まぶたを下ろした。  動かなくなった口の端からコスモスの一片がこぼれ、ポチは静かになめとった。  
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