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ユピの記憶Ⅵ
次の瞬間、ヒラクは砂漠の風に吹かれていた。
足元には赤いドレスを着たユピの母親が、血の気の失せた白い顔で倒れている。
死んだ母親を見下ろして、ユピは呆然としていた。
(『これでもう、おまえを必要とする人間はどこにもいない。おまえのすべては私のもの』)
ユピの中で誰かが笑っている。
『もう母上も……誰も……僕には……何も……』
ユピは放心状態でつぶやいた。
(『おまえはただの器。私のための道具。名前すらおまえには必要がない』)
心の声がユピを傷つけ、孤独と絶望を与える。
『僕は誰……僕は何……僕は……どこに……』
砂漠の風の轟音にユピの悲痛な叫びはかき消され、傷つく心は砂となり、吹き飛ばされて消え失せる。
ヒラクはもうユピの心を感じることはできなかった。
そこには自分をすっかり明け渡したからっぽの心があるだけだ。
そして人形の目に映されるものを眺めるようにヒラクは懐かしい姿を見た。
(父さん……!)
イルシカがユピに駆け寄ってきたかと思うと、足元に倒れるユピの母親を抱き起こした。
(そうか、これはおれとユピが初めて会ったときの砂漠の記憶だ)
それはユピが母親と死に別れた日のことだ。
けれどもユピは、まるで自分とは関係ない出来事のように思っているようだった。
イルシカの声を風の音と同じ感覚で受け止め、母親が死んだという実感もない。ユピの心はまるで死んでいるかのようだった。
(ユピ! ユピ!)
ヒラクは心の中で必死に叫ぶ。
(ユピ! しっかりして!)
そのときだった。
『ユピ!』
ヒラクの声が響いたと思うと、一瞬で場面が変わった。
『ユピ、ユピってば! 聞こえないの?』
ヒラクは五歳の頃の自分と向き合っていた。
そこはアノイの家だった。
ユピと寝起きをともにした部屋をヒラクはなつかしく思った。
幼いヒラクの琥珀色の瞳がまっすぐに自分をみつめている。
思い出の中に自分の姿があるのは不思議な気がしたが、戸惑いはヒラクだけではなく、ユピのものでもあった。
『ごめん、まだ、名前……慣れない』
ユピの口からたどたどしい神語が発せられる。
出会ったばかりのユピはそんな口調で話していたと、ヒラクは思い出していた。
『へんなの~、おれの名前はすぐ覚えたのにさ』
幼いヒラクは無邪気に笑う。
ユピの中に温かな感情が湧き上がる。
なぜかヒラクは泣きたくなった。
『だって、君は特別……だから……』
そう言って、ユピは幼いヒラクを抱きしめた。
いとしさがあふれ出し、それは誰が誰に向けたものなのか、ヒラクはわからなくなった。
『ヒラク、僕のこと、好き?』
ユピがつぶやく言葉に、ユピの中にいるヒラクは思わず答えそうになった。
けれども先に答えたのは、ユピに抱きしめられている五歳の頃のヒラクだった。
『おれ、ユピのこと大好き』
幼いヒラクの明るい笑顔はユピの世界を色鮮やかに輝かせる。
幸福感に満たされるユピの目を通して見る世界は、なんて活き活きと見えるのか……。
ヒラクは驚きをもって、ユピが捉える世界を感じ取っていた。
『僕は……ユピ。ヒラクはユピが必要。だから、僕もユピが必要……』
『ユピ、まだうまく話せないんだね。何言っているか全然わからないよ』
五歳のヒラクは明るく笑って言った。
けれどもユピの中にいるヒラクには、このときのユピの気持ちがよくわかっていた。
ヒラクはユピの言葉を思い出す。
――君がいなければ、僕は僕ではいられない……
――君という光がなければ、僕は僕さえ見失う……
ユピがユピとして生きる人生を与えたのはヒラクだった。
愛も憎しみも哀しみも、すべてはヒラクのためにあった。
ヒラクのために引き出される感情は他の誰のものでもなく、ユピがユピ自身であることを示す何よりの証だった。
「おれ、ユピのこと何もわかってなかった……」
ため息のように漏らした言葉は確かにヒラクのものだった。
ユピの記憶の中にいたはずのヒラクはなぜかヒラク自身として存在していた。
一体どういうことなのか……。
いつのまに、ユピの記憶の中から出ていたのか。
ここはどこなのか……。
すべては闇に包まれた。
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【登場人物】
ヒラク……緑の髪、琥珀色の瞳をした少女。偽神を払い真の神を導くとされる勾玉主。水に記録されたものを読み取る能力や水を媒介として他人の記憶に入り込むことができる能力がある。今はユピの記憶に中に入りこみ、なぜか神王の記憶につながった。
ユピ……青い瞳に銀髪の美少年。神帝国の皇子。ヒラクと共にアノイの村で育つ。生まれた時は青の勾玉主だったが、赤の勾玉主の人格に支配され、自らの勾玉を失う。皇子の地位を捨て、勾玉主としてメーザに迎えられたヒラクの旅に同行し、破壊神の剣を奪うと再び神帝国に戻り王の鏡を手に入れる。そして「神の扉を開く鍵」を得るためヒラクを記憶の中へと誘導する。
大神官……神帝を神王の生まれ変わりとして祀り上げ、神官としての権威を誇りながら軍師と共に神帝国の二大勢力として君臨していた。ユピの言葉の支配により、死の二択を迫られ自ら命を絶つ。
軍師……神帝国の兵士を統率する軍部の長として権威と影響力をもつ存在。神帝を王の器と認めておらず、信仰対象としての神として神帝を祀り上げる大神官とは反目している。ルミネスキ戦で希求兵の手にかかり戦死する。
★黄金王…最初の勾玉主。黄金の勾玉を持っていた。太陽神とも呼ぼれ、月の女神信仰のルミネスキを支配し、月の女神を妃にしたといわれている。勾玉の導きにより始原の鏡を手に入れるが、その鏡を神の証とし「王の鏡」としたことで勾玉の光を失う。
神王…黄金王の死後現れた二人目の勾玉主。赤い勾玉を持っていた。自らを神の中の神、王の中の王とし、太陽神信仰者や月の女神信仰者は異端として迫害し、メーザ全域を神の統治国家とした。「王の鏡」を奪ったとされている。
神帝…神王の再来といわれ、神王亡き後、国を失ったネコナータの民たちの希望の存在として信仰対象となり、北の大陸ノルドに神帝国を築いた。
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