静寂を彫る

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静寂を彫る

ばあさんの息が止まった。今度こそ最期だ。  そう言った矢先、何事もなかったかのように微弱ではあるが正常な呼吸をし始め、母は顔を顰めた。一日に何度かある儀式のような瞬間。大抵は母の早とちりだが、この絵空事のような儀式が現実となるとき、祖母は死ぬ。  トシちゃんは幸せ者よなあ。  近所に住む祖母のサークル仲間であった和喜子さんは、顔を合わせるたびに目を細めてしみじみと呟く。年取ったら長年住んできた家に帰りたいって思うのよ、家で死にたいって思うのよ、だからほんとうにトシちゃんは幸せ。  祖母の意識はもうほとんどない。傾眠がずっと続いており、まれに薄く目を開いて天井よりも十数センチ低いところをぼんやりと眺めている。喋ることはきっともうない。  祖母を家に連れてきたのは父だった。自分では大して看ないくせに、和喜子さんと同じ「幸せ」という言葉を使って母を説き伏せた。最期くらいは家で死なせてやりたい。祖母が病院にいた頃からちっとも見舞いになど来なかった父が、真剣な表情で祖母の幸せについて、祖母への思いについて語る姿は、滑稽以外の何ものでもなかった。  父が看ない皺寄せはすべて母に来る。母は最初こそ物珍しげに甲斐甲斐しく世話をしていたが、祖母の意識が混濁してくるとため息ばかり漏らすようになった。  リビング横の四畳半の和室に祖母は寝かされている。介護用ベッドの柵に囲まれ窮屈そうな姿は、すでに棺桶の中にいるのと何が違うのだろうか。 和室の奥にもう一つ四畳半の部屋があって、引き戸を開放すると和室の祖母の様子が見えるようになっている。わたしはそこで日々彫刻を彫る。祖母から発せられるむせ返るような死の匂いと、ほの赤く明滅する生の灯りをふんだんに浴びながら。  明野のオヤジが今日も来ている。カウンターのど真ん中を陣取って、キャストの女の子たちに下ネタを連発している。やんわりと注意してもやめないどころか、途端機嫌を悪くしたりと扱いが面倒くさい。 「もう明野さん、やめてくださいよお」 「いいじゃねえか、デブッチョりんりん。見た目の通りだし、語呂もいいし」 「ひどおおい」  りんりんはかれこれ五年もこのガールズバーで働いている、店一番の古株だ。見た目は確かに少しぽっちゃりしているが、明野が言うほどではない。完全にセクハラ、侮辱だ。キャスト歴が長いだけあって、客の扱いもさすがと言いたくなる瞬間がいくつもある。けれど、一旦裏に入れば客の、特に明野の悪口のオンパレード。 「あのクソジジイ、早く死なねえかな」  足を組んで煙草の煙を吐き出しながらそう言う姿はいやに貫禄がある。ミニスカートから溢れ出した白い肉の塊が、彼女が貧乏ゆすりをするたびもっちもっちと揺れていたのを思い出し、わたしはほんの少し空腹を覚えた。 「よお、リセ。お前は相変わらず愛想がないな」  カウンターに入ると、明野がすかさず声をかけてきた。にいっと笑った口元から、ヤニで黄ばんだ並びの悪い歯が覗いた。 「明野さん、こんばんは。これでも精一杯接客してるつもりなんですよ」 「金髪振り乱して接客してる、の間違いじゃねえか? そのナリで愛想悪いとヤンキーにしか見えねえぞ」  明野はヤンキーのキーにアクセントをつけて悪態をついた。うるせえジジイ、なんて言えるわけもなく、わたしは乾いた声で笑っておいた。  わたしの金髪を祖母はとうもろこしのヒゲみたいと言って大層気に入っていた。まだ元気だった頃の話だ。 高校の卒業式のあと、その足で美容室に行ってブリーチをした。本当はアヴリル・ラヴィーンのように金髪ストレートにしたかったけれど、縮毛矯正まですると料金が跳ね上がるのでやめた。かくして、まさにもさもさと揺れるとうもろこしのヒゲのような金髪癖毛ロングができあがった。  父も母もしばらく絶句していた。それから、母が猛烈に怒った。 「そんな派手な髪にして、恥ずかしくて外に出られないじゃない」 「別に母さんが染めたわけじゃないじゃん」 「三山さんところの娘は気が狂った、って言われちゃう」 「知らねえし」  そんな会話をした気がする。父は始終呆れたような顔で黙っていた。 「まあ梨世ちゃん、その髪、とっても素敵ねえ。とうもろこしのヒゲみたい。ヒゲ茶ってね、香ばしくて美味しいのよ」  声がして振り返ると、和室の引き戸の前に祖母が立っていた。笑った目が深い皺の中に隠れた。 「幹恵さん、梨世ちゃんにヒゲ茶飲ませてあげて。家にあったかしら。なかったらね、私買ってくるから。えーと、お財布お財布……」 「ちょっと、お義母さん」  もはや何の話をしていたのかわからなくなった。母は、財布を探してリビングをうろうろする祖母を必死に宥めた。  ヒゲ茶はどうでもいいが、わたしは素敵だと褒められたことが嬉しくて染めたての髪をそっと撫でた。とうもろこしのヒゲみたいという喩えは正直微妙だったけれど。 「おい、ヤンキー」  明野の声がわたしを現実に引き戻す。 「何ぼうっとしてんだ。俺の酒作ってくれや。角ハイな、角ハイ」 「もう、明野さん。ヤンキーじゃないですよお」  りんりんの口調を真似て語尾を伸ばしてみた。わたしのキャラでやると気持ち悪いな、と思ったが、明野は何も言ってこなかった。  三人で来店した若い客のダーツの人数合わせに駆り出されたり、中年のサラリーマンとカラオケでデュエットしたり、明野を適当にあしらったりしながら、夜七時から出勤したバイトは十二時過ぎに終わった。店は翌三時までやっている。そこから閉店作業があるから、ラストまでいる場合は退勤が四時近くになる。裏にいた店長とりんりん、ホールの女の子たちに挨拶をして店を出た。  大学受験に失敗し、今年の五月からこのガールズバーで働き始めた。予備校は春から通っていたけれど、雰囲気が合わなくて一ヶ月でやめた。頭はいいほうじゃないから私立でもなんでも入れるところに入ろうと思っていたが、どこにも引っかからなかった。 予備校をやめてガールズバーで働き出した時点で、わたしの学習意欲は底をついていた。それなのに両親には独学で勉強して来年大学に合格するから、と啖呵を切ってしまった。そうでも言わないと、予備校をやめさせてくれなかっただろうから。  ガールズバーでのバイトも最初は猛反対されたが、大学の授業料の足しにしたいと言うと渋々許可がおりた。そんなデタラメを言ったものだから、全部遊びに使おうと思っていた給料の半分を学費貯金する羽目になった。  あーあ。帰り道で盛大にため息をつく。静かな夜だった。繁華街を抜けると車通りも少なくなり、わたしの家までの徒歩十五分間は、うるさいと言えば星の瞬きと信号機の点滅くらいだった。 静寂、という言葉が好きだ。静かで寂しいだなんて、最高に美しい。この世で一番美しい感情は、寂しさなのではないかと思っている。この世で一番美しい状態は静けさであるとも思っている。触れることさえ叶わない、冷たく尖った氷の結晶。ピリリと頬を刺す真冬の夜の空気。静寂とは、そんなイメージだ。  十一月初旬の夜は、まだほんの少し秋の陽のあたたかさを引きずっている。空気に鋭利さが足りない、不完全な季節だ。後ろから滑るように黒い車が走ってきて、わたしを追い越し向こうの闇に消えていった。  玄関のドアには当たり前のように鍵がかかっていた。リュックから合鍵を取り出し、開ける。うちの鍵はどんなに慎重に回しても、途中からガチャンッと大袈裟な音を立てて開く。神経が過敏な母は大体その音で起きてくる。寝ていればいいのに、いちいちわたしに文句を言いにくるのだ。  けれど、今日は誰も起きてこなかった。珍しく母にも気づかれなかったらしい。わたしは忍び足で自室に入った。隣の和室からは祖母の大きい寝息が聞こえてくる。そっと近づいて、顔を覗き込む。 「ばあちゃん」 囁いてみるが、寝息にかき消された。暗がりで見る祖母の顔は頬の窪みに影が差し、そんなに痩せてもいないのにまるで骸骨のようだった。まだ生きているのに、死に顔が容易に想像できた。死の匂いがする。同時に生が茹っている。ゾクゾクした。  わたしは部屋に戻り、彫刻刀と木槌をケースから取り出した。今から彫るのだ。祖母の命が尽きる前に。祖母に死が訪れる前に。その瞬間に完成できるように。音が響くから、さすがに母が起きてくるかもしれない。夜は彫るなと言われているが、構わない。夜は一番生と死の静寂が色濃く感じられるのだ。  彫刻刀を木材に当て、木槌で打つ。コーン、と小気味良い音が部屋中に響いた。 「梨世、あんた昨日帰ってから彫ってたでしょ。夜はやめなさいよ、夜は。隣近所に響くのよ」  目覚めてすぐ、母に小言を言われた。明け方四時まで彫った。木屑を片づけシャワーを浴び、ベッドに入ったのは五時過ぎだった。今は八時なので、三時間しか寝ていない。 「なんか湧いてきちゃって」 「何がよ。意味わかんないから」  母はわたしの感覚を理解しない。はなから否定、口癖は「意味わかんない」。わたしが母の理解を超えた言動をしているのか、母の許容範囲が狭いのか。どちらにせよ、そりが合わないから母と話すと苛々する。  父はとっくに仕事に出ていて、家にはわたしと不機嫌な母と死にかけの祖母。死にかけと言うと母が怒るから、口には出さない。自分が一番、早く死んでくれと思っているくせに、変なところで格好をつける。 「あんたもちょっとは手伝いなさいよ。ほら、これ捨ててきて」  祖母のお尻を拭いていた母が、汚れた介護オムツを丸めてわたしに押しつける。オムツは湿っていてずっしりと重かった。生き物のようなしっとりとしたあたたかさに、鳥肌が立った。生きてる、と呟く。母には聞こえていないようだった。  祖母は珍しく目を開けて、中空をじっと見つめていた。目線の先には何があるのだろうと追ってみると、神棚があった。まだ体が動いていた頃、祖母は毎日お供えの水を取り換えて祈りを捧げていた。意識が三分の一くらいになった今も、心の中で祈っているのだろうか。手を合わせることはできなくても、祈りは届くのだろうか。  母に清拭されながら、祖母の目線はずっと神棚を向いていた。祖母が倒れてから、神棚の水は誰も取り換えずそのままになっている。存在さえ忘れているように、皆神棚の下を素通りしている。きっと埃も溜まっているだろう。 「母さん、神棚掃除したほうがよくない?」  母に声をかけると、祖母の目がこちらを向いた。唇を突き出し、震えながら何かを言おうとしている。 「母さん、ばあちゃん何か言いたいみたい」  祖母の足の下にクッションを詰めている母は、聞こえていないのか反応がない。 「ねえ、母さん。ばあちゃんの口見て。何か言おうと」 「うるさいなあもうっ」  ガンッ、とベッドの柵が鳴った。母が拳を握ってわたしを振り返った。 「気づいてんならあんたがやんな。母さん母さんって、何でも私に言わないでよ。あんたは何もしないで呑気に木ばっかり彫ってキャバクラだか何だか変なところでバイトしてっ」  母の眉間がVの字になっている。わたしは驚いて母の顔を見ていたけれど、祖母の表情も気になった。ちら、と祖母に目をやると、神棚もわたしのほうも見ておらず虚ろな様子で天井を仰いでいた。 「あんたがやんな」  叩きつけるようにもう一度言い、母はどすどすと足音を立て和室から出て行った。  めんどくさ、と吐き捨てる。何よりも母が面倒くさい。そもそもの原因を作った父も、同じくらい面倒くさい。こんなふうになるのなら、ずっと祖母を病院に入院させておけばよかったのに。でも、そうしたらわたしは彫刻を彫ろうとも思わなかっただろう。自分史上最高傑作になるかもしれない彫刻は、死に瀕した祖母がいないと製作できない。  いつの間にか、祖母は目を閉じていた。寝息が聞こえる。わたしは彫る。木に祖母の生を刻む。死を、刻みつける。その前に神棚からコップを下ろし、水を取り換えた。祈りは捧げなかった。  午後になって、母が久しくしていなかった化粧をし始めた。洗面台を独占し、鼻の下を伸ばしながらアイラインを引いている。トイレから出ても手を洗えない。 「どっか行くの」 「んー」  生返事が返ってくる。顔を左右に動かしアイラインとアイシャドウのバランスを見て、右の瞼をブラシでひと撫でしてから、ようやくこちらを振り返った。 「高校の頃の友達と集まるの。言ってなかったっけ」 「聞いてない」 「そう。ばあさんの世話、よろしくね。夕飯までには帰ると思うから。みんな主婦だし」  そう言って、母は再び鏡と向き合った。ブラウンの口紅をぐるっと塗り、んまんまと唇を動かす。さっきわたしにキレたことなど忘れているかのように楽しげだ。  母が家を出たあと、わたしは祖母の様子を見に行った。目を閉じて眠っている。目を開けていても眠っているようにぴくりとも動かないときもある。 死に瀕した人間の生態は不思議だ。まるで別の生き物みたいだ。人間だけれど、深海に潜んでいる暗い色の魚に見える。何を見て、何を考えているのかわからない。じっと動かないで、沈むように息をする。  静寂だ。音のない冷たい世界。祖母は今、そこで生きている。体温が次第に奪われていき、体中に棘が生えたように鋭利になる。そのあわいに、わたしは彫刻を完成させたいのだ。  ふいに祖母が目を開けた。わたしを見ているようで、どこも見ていない。焦点の定まらない瞳がふわふわと彷徨っている。 「ばあちゃん」  声をかけても、わたしを見ない。母はついさっきオムツを取り替えたと言っていた。夕方に帰るなら、わたしがすることはそんなにない。祖母の、点滴が刺さった腕を見る。青黒く変色している。本当に深海魚に変化していくみたいだ。  しばらく祖母の顔を見ていた。彫刻を彫るにはインプットも大事だった。祖母の周りに漂う空気を吸い、彫るためのエネルギーに変える。祖母の生と死が入り混じった息を、わたしは作品に昇華させるのだ。  膨大な死がダムのように堰き止められている。それが決壊するとき、わたしは今までに見たこともない至高の彫刻に出会えるだろう。自分の手から生まれたそれを、わたしは生涯誇りにして生きていく。   夕方五時頃、頬と鼻の頭を赤く染めた母が帰ってきた。わたしはリビングで参考書を広げ、形ばかりの勉強をしていた。 「はあ、寒い寒い。夜中雪が降るかもね」 「おかえり」 「雪が降ったって、帰り迎えに行かないからね。あんたが好きで始めたバイトでしょう。親を頼るんじゃないよ」 「何も言ってないじゃん。そういうのうざい」  イラッとして強い口調で抗議する。母は、あー反抗期反抗期、と肩をすくめ洗面所に入っていった。豪快なうがいの音が聞こえてくる。 「うっざ」  開いていた参考書を力任せに閉じる。何が反抗期だ。お前が人の神経を逆撫でするような言い方をしたんだろ。母にアピールするために勉強するふりをしていたことが馬鹿馬鹿しく思えた。この「確かな実力がつく」シリーズの参考書は母が勝手に買ってきたものだ。わたしの学力に合っているところが腹立たしい。  自室に戻り、参考書とノートを本棚に投げ入れた。ゴミ箱には捨てない。冷静になったあと、ゴミ箱から拾い上げる自分の姿を思い浮かべて惨めな気持ちになるから。  部屋の真ん中には彫りかけの木材がでんと立っている。ささくれた心が和らいでいく。家を出る時間ギリギリまで彫ろうと思っていたが、母のせいで気がそれた。手を伸ばして木に触れる。まだやすりをかけていないガタガタした表面を指先でそっと撫でる。体温のようにほんのりあたたかく感じた。そんなはずはないのに。  軽く夕飯を食べて、バイトに行く支度をする。洗面所でアイラインを引こうとして、母のやり方とそっくりだと気づいた。うわあ、と声が漏れる。普段は時間をかけるメイクだが、今日は最低限の眉毛だけ描いて終わらせた。金髪とちぐはぐな、なんとも薄味な顔が鏡に映っている。  モッズコートに身を包み外へ出ると、玄関先で和喜子さんに出くわした。挨拶のあと、訊いてもいないのに、バターがないからスーパーまで買いに行くところなの、と説明される。 「梨世ちゃんはどちらへ?」 「バイトです」 「あらあ、えらいわねえ。どんなお仕事をしているの?」 「まあ、接客業ですね」  ガールズバーと言ったらまず伝わらないだろうし、説明したらしたでいかがわしい店じゃないのと疑われるだろう。曖昧に濁しておいた。 「こんな立派なお孫さんがいるなんて、トシちゃんは本当に幸せ者ねえ」  またこの話だ。この人は幸せ幸せと簡単に言うけれど、幸せの意味をちゃんと理解しているのだろうか。家で家族に世話されているから幸せ、孫が立派だから幸せ。随分短絡的だ。  祖母が幸せじゃないとは思わない。でも、幸せだとも思えない。そもそもそんなこと、祖母にしかわからない。なのにこの人は、当たり前のように祖母の幸せを定義する。図々しい。 「そうでしょうか」  気づいたら、そう返していた。和喜子さんは聞こえなかったのか、え? と耳を傾けてくる。 「祖母が幸せだって、本当にそうでしょうか。わたしには、祖母は何も考えていないように見えますけど」  和喜子さんの表情が固まる。頬の肉がずり下がり、皺が余計深くなる。寝たきりの祖母は重力で顔の皺が引っ張られて、アイロンをかけたみたいにピンと伸びている。それでも和喜子さんと同じように隠しきれない皺がいくつもある。 「トシちゃん、トシちゃんは……」  うわ言のように繰り返す和喜子さんにそれじゃあ、と会釈し、バイトに向かう。いつもより早く家を出たから遅刻することはないが、これ以上和喜子さんと話すこともなかった。  病院に入院していた頃の祖母は会話をすることができた。調子のいいときは起き上がって車椅子で移動し、食堂でご飯を食べることもできた。トイレは共同の場所まで行くのは難しかったが、ポータブルトイレをベッドのすぐ横に置いて自力で用を足していた。ほんの数ヶ月前までの祖母には、できることがたくさんあった。 「ああ家に帰りたい」  事あるごとに祖母はそう漏らしていた。その度に母は、 「元気になったら戻れるわよ」  と笑って言っていた。母もまさか祖母を家で看ることになるなんて思ってもいなかったのだろう。あの頃の母にはまだ余裕があった。  けれど、枝から枯れ葉が一枚一枚離れていくように、祖母のできることは一つずつ少なくなっていった。 まず立ち上がれなくなり、ポータブルトイレでも用を足せなくなった。看護師に支えられても苦しそうで、長い時間をかけて立ちあがろうとする姿に、オムツの着用が提案された。  オムツになってすぐ、今度は起き上がることが難しくなった。体に力が入らないのだと言い、支えられてなんとか起き上がっても眩暈がする、具合が悪いと訴えた。自身が起き上がることはできないが、ベッドごと起こして座ったような状態にすることはかろうじてできた。でも、それもベッドの角度によっては苦しがることもあった。  声も次第に弱々しくなっていった。必死に喋ろうとはするものの、何を伝えたいのか、何を求めているのか、わたしも母もわからなかった。自分の要求が正確に伝わっていないとわかると、祖母はもどかしそうに眉根を寄せ、大きなため息を吐いた。  父が見舞いに来るようになったのは、祖母の傾眠が多くなった頃だった。弱って一回り小さくなった祖母を見て、父は涙を浮かべた。 「母さん帰ろう。家に帰りたいって言ってたよな。連れて行ってやるよ。なあ」  母が嘘でしょう、と呟いて父を見た。 「帰りたいって言ってたんだろう。家で看取るのが母さんにとって一番幸せだと思うんだ」 「そんなこと言ったって、誰が看るのよ。何の知識もないんだよ」 「みんなで交代してさ。往診してくれる医者も探す」 「そんなことできるの。だいたいあんた、ちっとも見舞いに来なかったくせに」 「家にいたら嫌でも看るさ」 「嫌でもって何よ、あんたの母親でしょう」  両親が小声でやり合っている間、わたしは祖母の顔を見ていた。本当に寝ているのかな、本当は全部聞こえているんじゃないのかな。 「やっぱり家よりここのほうが安心するわ」  わたしはそう祖母が言っていたのを知っていた。そのとき、母は近くにいなかった。わたしだけがその言葉を聞いたのだ。祖母は天井を見つめながら、誰に伝えるでもなくぽつりと言った。わたしも深追いはしなかった。そう言えば最近、家に帰りたいと言わなくなったな、とぼんやりと思った。  店には二十分ほど早めに着いた。ロッカールームに入ると、りんりんが一人で煙草を吸っていた。他の子たちはすでに着替えて、表のカウンターで店長とお喋りをしていた。 「おはようございます」 「んー、おはよ」  ゆるゆると煙を吐き出し、気怠そうに首をもたげる。りんりんの地声は低い。この声を聴くと、接客時の鼻に抜けるような甘く高い声が奇妙に感じる。けれど、同時にベテランの意地を見せつけられているようで清々しくもある。 「リセちゃんも吸う?」  りんりんはそう言って煙草の箱を揺らした。綺麗に整えられた短い爪に目が行く。 「一応まだ未成年なんで」 「なあんだ、そんな理由。あたしなんて高一から吸ってたよ」  笑いながら煙を吐く。りんりんの声の形そのままに煙がゆらめいた。 「感覚が鈍るんで」 「かんかくぅ?」 「未成年だからとか、本当はあんまり関係なくて。ただお酒飲んだり煙草を吸ったりすると自分の手元が狂うと言うか、思い通りに手が動かなくなっちゃうと思うんです。成分にやられるとかじゃなくて、気持ち的な話ですけど」  気づくとベラベラと喋っていた。こんなこと、誰かに話したところで理解されないとはなから諦め、隠していたのに。りんりんは真顔でふうん、と言い、煙草の灰を灰皿に落とした。 「なんかよくわかんないけど、リセちゃんはゲイジュツカなんだ」 「ゲイジュツカ」 「そ。感覚が鈍るとか手元が狂うとか。そんなこと言うのって、それしか考えられないよ」 「なりたいわけではないと思うんですけど」 「そうなん? じゃあ何のためにやってんの? てか、そもそも何をやってるの? 絵?」 「彫刻です。木を掘ってます」 「そりゃすごい」  りんりんは大袈裟にのけぞった。短くなった煙草を灰皿に押しつけて火を消す。 「祖母が、寝たきりなんですけど、もうすぐ死にそうで。覚えておきたいって言うか。祖母の存在がなくなっちゃう前に、祖母が生きていた証を残したいって思って」  嘘だった。いや、完全な作り話ではない。半分本当で、半分違う。りんりんに初めて打ち明けることができたものの、やっぱり理解されるわけがないとどこかでブレーキがかかる。わたしが彫刻を彫る理由は、そんなに美しいものじゃない。 「へえ。やっぱリセちゃんはゲイジュツカだわ。あたしも実家でばあちゃんの世話してんだけどさ、別に覚えておきたいとか思わないもんね。ばあちゃんの死を形にしたいとか思わない。死んだら終わり。悲しいけど、あたしは多分それだけなんだろうな。リセちゃんはすごいね」  なるほど、りんりんの爪が短いのはそういう理由だったのだ。派手な見た目なのに、爪だけネイルも装飾もなくて少し違和感があった。自分の爪を見る。わたしもネイルも何もしていないけれど、りんりんの爪よりはだらしなく伸びている。りんりんに感づかれないように、さっと両手を隠した。  すごい、と言われて悲しくなった。本当にすごいのはあなただよ、と言いたくなった。姿形を気飾っても、心は素っ裸なのだ。なめらかな白い肌を、何も纏わず晒している。無防備で危なっかしくて、震えるほど綺麗だ。 「りんりんさんこそ」  言いかけたが、同時にりんりんのスマホが鳴った。てぃんてぃろてぃんてぃろ、と間抜けな音楽が鳴り続ける。りんりんはわたしの声には気づかずに、電話に出た。それでいいと思った。わたしは着替えようとロッカーを開けて、リュックを投げ込んだ。  母が朝からイライラしている。リビングのソファで寝っ転がってスマホをいじっていたら舌打ちされた。あんたも手伝いなさいよ、と尖った声が降ってくる。  母は祖母のベッドのシーツを窓辺に干している。今日はよく晴れていて、あたたかい日差しが窓から入ってきていた。十一月ももう終わるというのに、春みたいに気温が高い。  シーツはちゃんと洗っているはずなのになんとなく黄ばんでいる。祖母の汗や体液が染みついているからなのだろうか。シーツ黄ばんでない? と言おうとしたが、すんでのところでやめた。余計なことを言うと母のイライラの炎に油を注ぐことになる。  ぶつぶつと小言を言いながら他の洗濯物も干している母の横を、そろりそろりと通り抜ける。祖母のいる和室まで行こうとしたとき、リビングの扉が開いた。 父が起きてきた。薄くなった髪に寝癖がついている。父はおはようも言わずヒグマみたいにのっそりと台所に行き、冷蔵庫を開けた。目ぼしいものはなかったのか、すぐに扉を閉じて頭を掻いた。振り向いて、今初めてわたしに気づいたとでも言うように、おお、と片眉を上げた。 「梨世、起きてたのか」 「とっくに。もう十時半だよ」  休みの日の父は時間感覚がおかしくなる。 「母さん、どうだ」  父がわたしの横をすり抜けて祖母のベッドへ近づく。顔を覗き込んで、眠ってる、と呟いた。母が無言で洗濯物をばさっと広げた。その音が大袈裟に聞こえて、父も驚いたのか母を振り返った。  シーツが新しいものに変わっていることに気づいた父は目を細め、祖母に向き直った。 「新しいシーツで気持ちがいいな、母さん」  反応はない。けれど、父は満足そうにピンと張ったシーツを撫でた。  ガンッ  突然大きな音がして、肩が跳ね上がった。見ると、空になった洗濯カゴが床に転がっていた。母が仁王立ちで父を睨みつけている。父が呑気な声で、どうしたんだよ、と言った。 「あんたの母親だろうがっ」  母が怒鳴る。腹の底から出たような凄みのある声だった。 「あんたの母親を何で私が看なきゃいけないんだよ! あんたは何もしないで私にばっかり押しつけて! あんたが家に連れてきたんだろうが。みんなで交代でって言っただろうが! 何で私だけが看てんだよ。おかしいだろっ」  母は子供みたいに地団駄を踏みながら怒鳴り散らした。 「いや、だけどさ」  父がおろおろと弁解を始める。 「仕事をしながら介護するって、思った以上に大変なんだよ。お前は働いてないんだから、母さんの面倒くらい看れるだろ?」 「だったら仕事辞めちまえ!」 「そんなわけにはいかないだろう」 「あんたが連れてきたんだから、責任持ってあんたが看な。私は反対したんだからね」 「そんなこと言うなよ。なあ、頼むよ」  あーあ、またやり合ってる。とばっちりを受けないように、静かに祖母の顔を見に行く。祖母は喧騒を聞いているのかいないのか、ただ目を閉じているだけだった。  ばあちゃん。心の中で呼びかける。母さんと父さんの言い争い、本当は聴こえているんでしょう。ばあちゃんの世話の押しつけ合いをしてるよ。ばあちゃん、悲しくないの? 生きていてもしょうがないって、思わないの? 早く死んでしまいたいって、そう思わない?  祖母の体から発する生気が少しずつ薄くなっているような気がした。死の気配が一回り色濃くなる。胸が震えた。わたしは部屋に駆け込み、彫刻刀を掴んだ。  初めて彫刻刀を手にしたのは、小学四年生の図工の時間だった。版画を彫るためにあらかじめ用意していたものだ。蓋を開けると、それぞれ先端部分の形が違う五本の彫刻刀と、のり煎餅みたいなばれんが入っていた。父が昔使っていたもののおさがりで、あまり使い込まれていなくて綺麗だけれど、周りの子たちのカラフルでガードがついたものとは違い、持ち手がシンプルな木製だった。  これは平刀、切出刀、三角刀、中丸刀、丸刀小。先生が説明していった。先生の彫刻刀もわたしと同じタイプだった。使い方を教わり、長方形の木の板を彫り始めた。彫るたびにするすると木屑が出てきて、面白いと思った。  最初はそんな記憶しかない。そのときに彫った版画がどんなものであったかももう忘れてしまったし、特別上手くできたとか誰かに褒められたなんてこともなかった。彫刻刀はそれからも授業でたびたび使ったけれど、卒業したら使い方も忘れてしまった。  美大志望でもないわたしがどうして躍起になって彫刻を彫っているのか。母には大した趣味だと馬鹿にしたように言われたことがある。趣味ではないと思う。わたしが彫刻を彫るのはあとにも先にも、祖母が死に向かう今このときだけだ。  いつだったか、ソファに座る祖母の顔を見て愕然としたときがあった。ぼんやりとテレビを観る姿がやけに小さく、頬の肉がこそげ落ちて見えた。祖母はこんな姿をしていただろうか。丸顔でいつもふくふくと笑い、体も肉付きがよかった。けれど、目の前にいる老婆は顔に無数の皺が刻み込まれ、腕も足も手の甲もしおしおとしぼみ、皮膚の色も黄色く濁って、まるで干しすぎたたくあんのようだった。 バラエティ番組の司会者が出演者のボケに大きな声でツッコミを入れるのを、祖母は虚な目で眺めていた。その目には果たしてテレビの様子が映っているのか疑問に思えた。半開きの口からは確実に生気が漏れ出ていた。  いつの間に、祖母はこんな姿になってしまったのだろう。一緒に暮らして毎日見ているはずなのに、わたしは祖母の変化に気づかなかった。そう言えば最近笑わなくなったとか、食欲がなくなったとか、一日中テレビを観ているようになったとか、思い返せばいくらでも変化の予兆はあったのに、わたしは何一つ気に留めていなかった。  祖母が倒れたのはその数日後だった。わたしが見落とした祖母の異変は、両親でさえも気づくことなく、わたしたち家族の間を滑り落ちていった。 あのとき、わたしは祖母が一本の木に見えた。倒木に群がる羽虫のように、生と死が入り乱れてゆらゆらと揺らめいていた。 刻まなければ、と思った。祖母が生きた証を、とかそんな綺麗なものじゃない。鈍感な自分への憎悪、後悔、懺悔。死を間近に感じてもなお生を欲する、貪欲でしたたかな心。木肌に刻みつけ、それらが確かに存在したことを知らしめたかった。祖母の死を、圧倒的な静寂を、わたしは知りたい。木を彫り、木に刻むことは、それらを知ることなのだ。  コンコンコン、コン、コンコン。  木槌を打つたびに音が鳴り、木屑が散らばる。木が痩せていく。木だったものに輪郭が生まれる。もっと、もっと深く。彫刻刀を傾ける。音がわずかに変わる。  祖母の生気を吸い取って、祖母の死のエネルギーをまるまると受け継いで彫刻は完成に近づいていく。 祖母は着実に死に向かっている。祖母はもう目を開かない。昨晩、訪問医が来て、危篤状態だと告げた。どれくらい持つかと母がしつこく訊いていた。本人の体力気力生命力による、と濁していた医者だったが、母の質問攻めに根負けしたのか、持って二、三日と漏らした。母の顔に安堵とも焦燥とも悲しみとも取れる表情が浮かんだ。  彫刻はあと、細かいところを削る作業で完成する。ふくよかな顔の輪郭、細めた目とその横にできる笑い皺。生きている。まだ、祖母は生きている。  手を止め、祖母の様子を見に行った。口が開いて、ごろごろと喉の奥が鳴っているような音がする。 「ばあちゃん」  耳元で呼んでみる。反応はない。それでも人の器官のうち、最期まで機能しているのは耳だと何かの記事で読んだことがある。祖母は聞いている。わたしの声、父が階段を降りてくる音、母のため息。家の内外からするあらゆる音を聞かされている。聞きたくもない音や声もあるだろう。拒否することもできないのにそれらをそばで聞かされ続けるのは、暴力と何が違うのだろう。 「ばあちゃん」  声をひそめ、もう一度呼びかける。瞼がぴく、と動いた気がした。見間違いだったかもしれない。  今朝になって、祖母の呼吸が変わった。  母は朝食で使った食器を洗っている。父は仕事に行った。気づいたのはわたしだけだ。  祖母は下顎を持ち上げるように上を向き、数秒後にガクッと首を落とした。上を向いたときに息を吸い、下を向くときに長く息を吐き出した。今までに見たことのない動きだった。 「母さん、ばあちゃん、なんか変」  台所の母に声をかける。 「んー?」 「ばあちゃん。首がガクガクしてる」  そう言うと、母の手が止まった。流れる水を止め、タオルで手を拭いて小走りでこちらへやって来る。  しばらく祖母の様子を見ていた母は、長田さん、と呟いた。長田さんとは、訪問医の名前だ。 「ばあさん、やばいかも」 「え」 「死ぬかも」  母の言葉を聞いた瞬間、死という漢字が目の前にもわんと浮かんだ。色を失った、空洞みたいな、行き止まりのイメージ。  母はスマホを手に取り、電話をかけ始めた。喋り方からして、相手は父だろう。訪問医の名前を呟いたのに、真っ先に電話をかけるのは父だなんて可笑しい。  祖母はさっきからずっと喘ぐような呼吸を繰り返している。目は固く閉じられ、もう開きそうにない。わたしは自室に駆け込んだ。  出しっぱなしにしていた彫刻刀を手に取り、輪郭を彫っていく。すっすっすっ、と木の削れる音がする。そのたびに細かい木屑が飛び出し、足元に落ちていく。小さく抉るように刃を動かす。  母が忙しなくリビングを駆け回る音がする。何か言っているようだけれど聞き取れない。顔を上げて和室のベッドに目をやる。祖母が顎を上に向けたところだった。息を吸ったのだ。背骨を指で撫でられたようにぞくりとし、全身に鳥肌が立った。  あと、少しだった。左側の頬のカーブと、鼻と唇。それから全体にやすりをかけて、不自然な凹凸をなめらかにする。  チャイムが鳴った。母の走る足音。誰かが入ってきた気配。会話。緊迫した空気。それらすべてが遠く、何十枚も扉を隔てた先で行われていることのように感じた。  頬は丸みを持たせて彫らなければならない。ふくふくと笑い声が聞こえてくるような。この丸く彫るというのがなかなか難しい。力を入れすぎてはいけない。かと言って、抜き過ぎても刃が安定しない。頬は一番丁寧に彫らなければ。  木屑が足元に溜まっている。もう冬になるというのに、わたしは汗ばんでいた。彫刻刀が手から滑って飛んでいきそうで、変に力が入る。そのせいで、丸く丸くと思って彫っていた左頬のカーブが、右側と比べてわずかに急になってしまった。ああ、と声が漏れる。直している時間はない。祖母の死はもうすぐそこなのだ。  梨世、と呼ばれた気がした。母の声だろうか。ばあさん、母さん、母さん、母さん。立て続けに祖母が呼ばれている。母さん、今までありがとうなあ。涙まじりの声が聞こえる。父はいつの間に帰ってきたのだろう。職場から家までは三十分以上もあるはずだけれど。時間の感覚がなかった。  梨世。梨世。呼ぶ声。うるさい、わかってる。今仕上げなきゃいけないの。どうしても。  梨世。わかってるってば。  梨世。ああもう。 梨世ちゃん。 梨世ちゃん。 ……ばあちゃん? 幼い頃、わたしは祖母に梨世と呼ばれていた。どこに行くにも祖母のあとをついてまわって、おばあちゃん子だねえ、なんて近所のみんなに言われていた。 祖母は幼いわたしを連れて、よく市民農園に行っていた。その農園では少しだけだがとうもろこしも育てていた。 「しっぽ、しっぽ」 「梨世、これはねえ、とうもろこしのおひげ」 「しっぽ」 「おひげだよう。立派なおひげだねえ」  収穫したとうもろこしを祖母に手渡され、わたしはその金色に光る長くさらさらとしたひげをいつまでも触っていた。しっぽと言ったのは、多分テレビで観た競走馬の尻尾に似ていたからだろう。祖母とわたしは何度でもしっぽ、おひげ、しっぽ、おひげ、と言い合って笑った。  ばあちゃん。わたし、彫ってるんだよ。ばあちゃんのこと、ばあちゃんが生きていたってこと、ばあちゃんが死んでいくこと。わたし、知りたくてさ。ばあちゃんの周りはいつも静かだった。楽しそうに笑っていたのに、なんにも辛いことはないっていうふうに見えていたのに。でも、ばあちゃんの周りは音がしなくて、しんと静まり返った真冬の深夜みたいで。ばあちゃん、わたし、知りたいんだ。静寂の意味。笑ってるばあちゃんを彫ったら、わかるかなって思ったんだけど。 「梨世」  突然、後ろから抱きつかれた。祖母かと思ったら、母だった。祖母のわけはないのに。 「梨世、もういいよ。もういい」  母は鼻声だった。首筋を冷たいものが流れていった。母は泣いていた。 「ばあさん、死んだのよ」  わたしの手から、彫刻刀が滑り落ちた。  バイト先から数件電話が入っていた。今まで無断で休んだことは一回もなかったのに。二日遅れで、『祖母が死んだのでしばらく休みます』と店長にラインを入れる。 祖母の遺体は死んだ次の日に葬儀会場に運ばれた。家族葬だったので、親族が集まっただけだった。父と母と、父の妹、母の姉、祖母の弟とその奥さん、従兄弟たち。誰とも話す気にならなかった。  葬儀の間、ずっと頭が痛かった。たまに起こる片側だけ痛くなる頭痛ではなく、頭全体が締めつけられているような、割れるような痛みだった。蹲りたいのを必死に堪えていたから、司会の進行もお経も啜り泣く声も、何もかも鬱陶しかった。 祖母の遺影に照明が当たって、天から降る光の中にいるみたいに見えたこと、ふくふくと笑い声が聞こえてきそうに笑っていたこと、周りを囲む花々がまるで祖母の遺影から噴き出しているように飾られていたこと。それだけが鮮明に記憶に残っていた。  葬儀屋で一泊し、さっき火葬も終えて帰宅したばかりだった。親族たちもそれぞれの家へ帰って行った。彼らと会話をした記憶がない。年の近い従兄弟とは二言三言話した気もするが、内容は思い出せない。  頭痛はまだ続いていた。昨夜よりは幾分和らいだが、それでも頭の芯がガンガンと悲鳴を上げていた。  家に入ってすぐ、和室へ向かった。主人のいなくなったベッドが所在なげに佇んでいた。手すりに触れると、ひっそりと息をしているみたいに小さくキィと鳴った。  つい二日前まではここに祖母が寝ていた。喋ったり笑ったりせず、生きているのか死んでいるのかわからないくらい静かだったけれど、そこに存在しているというだけで声を上げているのと同じだったのだ。  和室の奥の自室に入る。完成間近だった彫刻が床に転がっていた。そばに彫刻刀と木槌も落ちていた。木屑が雪のようにまばらに積もっていた。彫刻に手を伸ばしたとき、玄関のチャイムが鳴った。母がリビングからパタパタと走って行く音がした。  声を聞いただけで、和喜子さんが来たのだとわかった。母が気圧されたようにへこへこと受け答えをしている。和室と自室の間の扉を閉めようとしたけれど、遅かった。母の後をついて和喜子さんがリビングに入ってきた。 「あらまあ、梨世ちゃん。おばあちゃんがねえ……。この度はご愁傷様です」  何と答えればよいのかわからず、曖昧に頭を下げた。 「本当に残念ね。生きてるうちにお邪魔したかったんだけど、なかなか行けなくて。お家で亡くなられたんでしょう?」 「ええ、一昨日の午前中に。家族葬だったんですよ。一丁目の葬儀屋で、小ぢんまりと」 「まあ、そうだったの。ちょっとお線香をあげさせてもらうわね」 「どうぞ。わざわざありがとうございます」  母が和喜子さんを和室の隅に設けられた祭壇へ促す。祭壇の中央には、葬儀場で見たものよりも二回りくらい小さな遺影が飾られている。  和喜子さんは膝を折れないからと言って、中腰で蝋燭に火をつけた。マッチを擦るシュッという音が一瞬和室を駆け巡った。蝋燭から線香に火を渡し、手首を軽く振ってその火を消した。線香の先が赤くなり、燃えているそばから灰になっていった。  和喜子さんが手を合わせながら何かを呟いているのを、ぼんやりと見つめた。母も和喜子さんの様子を焦点の合っていない目で眺めていた。 「でも、トシちゃんは本当に幸せ者だったよ」  和喜子さんがゆっくりと振り向いた。 「だって、家で家族で看てもらってたんだもんねえ。こんな幸せなことはないよ。息子さんも立派だよねえ。病院から自宅に連れてくるのって大変でしょうに。よく決断したよねえ。奥さんもお世話してたんでしょう? 本当、お疲れ様だねえ」  母の顔が凍りついた。和喜子さんに向かって、私が全部面倒見てたんだよっ、などと怒鳴り出さないか不安になったけれど、母は引き攣った顔のまま固まっていた。 「あたしもさあ、まだ動けるからいいけど、息子に一緒に住んでくれないかって言ってんの。動けるったって、もう八十過ぎだしねえ。でもさ、うちの息子なんて、俺は仕事に家庭に忙しいんだからそっちはそっちでどうにかしてくれって言うの。年金もらってるんだし、貯金もあるだろって。冷たいよねえ。一人息子なのにね。それに比べたら、トシちゃんは幸せだったよお。お家で逝けてよかったよ、本当に」  目を細めて涙ぐむ和喜子さんに、母はぎこちなく相槌を打った。  和喜子さんが帰ったあと、母は深いため息をついてソファに座り込んだ。うなだれて、顔を上げようとしない。わたしは自室に戻った。  改めて、未完成の彫刻を手に取って眺めた。見よう見まねで初めて彫ったにしたは、それなりに形になっている気がする。けれど、彫刻は祖母の生と死のエネルギーがごっそりと抜け落ちたようにしんとしていた。  完成しなかったら何の意味もない。いくら形になっていても、いくら一生懸命彫ったとしても。祖母はもういない。今から彫ったって意味がない。  祖母の生を刻みたかった。祖母が死ぬ瞬間に完成させて完璧な作品にするはずだった。わたしは一体、何をやっていたのだろう。祖母の世話も母の手伝いもろくにしないで。勝手に祖母を家に連れてきた父と、父に鬱憤を抱える母を遠巻きに見て一人冷静を装って。こんな何にもならない彫刻なんて必死に彫って。  馬鹿みたいだ。りんりんの短く切り揃えられた綺麗な爪を思い出した。あたしも実家でばあちゃんの世話してんだけどさ、と言った厚い唇を思い出した。ゲイジュツカだなんて、的外れもいいところだ。わたしは結局、祖母の死から逃げていただけだ。  彫刻刀を手に取った。未完成の彫刻に振り下ろす。ザク、と刺さり抜けなくなった。力任せに抜くと木が裂けた。心臓の位置だった。もう一度、振り下ろす。右頬に刺さる。そうやって、何度も何度も彫刻を傷つけた。  静かだった。音は聞こえているのに、わたしの内側はひどく静かだった。静寂に包まれていた。耳はあらゆる音を拾う。リビングでで母がすすり泣いている。階段を降りてくる父の足音。木に彫刻刀が刺さる音。木が傷つく音。  そうか。  手を止めた。わたしはきっと勘違いをしていた。本当の静寂は自分の内側にあるのだ。周りがどんなにさまざまな音を立てていようと、自分の心が凪いでいればただひたすらに静かな世界に身を置けるのだ。  祖母の周りは静かだった。祖母はいつも笑っていた。自分の楽しさや幸せ、自分の気持ちに心を集めていたのだろう。祖母には自分の鼓動だけが聞こえていたのかもしれない。  わたしは再び木に向かって手を振り上げた。その拍子に彫刻刀が汗で滑って飛んでいった。和室の空のベッドの下に滑り込んだ彫刻刀を見て、わたしはまたひとつ静寂の意味を知った。
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