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焦りつつ彼を見上げると、漆黒の双眸が私を射るように見つめている。——ゾクリ、と背筋を何かが這っていった。何かをされそうだけれど……彼の手はそこで止まると、ニヤリと不敵に笑う。
「そうだな、オレの可愛い秘書がキスをしてくれたら、……考えなくもない」
「キ! キスッて!」
くらりとして目の前が黒くなる。キスだなんて……!
ふらっと倒れそうになる私の腕を、社長は「おっと」と言って捕まえた。
「どうした、キスぐらいで。こんなこと、初めてでもあるまいし」
あたかも当たり前のように言い放つ彼に、思わず正直に話してしまう。
「はっ、初めてですっ!」
「なっ」
私の回答に驚いたのか、彼は口を手で覆うと「マジか……」と呟いた。こんなことを言わされるなんて、恥ずかしすぎて涙が出そうになる。
うるっとなった私を社長は立たせると、壁に背をもたれさせる。彼は私の顔の横に手を伸ばし、いわゆる壁ドンの姿勢になると、嬉しそうな顔をして自分の唇に人差し指をあてた。
「それなら余計に価値がある。ほら、ここにチュッとするだけだ」
「そ、そんなこと言って……」
「しないとオレは止めないぞ」
「社長!」
こんな時はどうして意地悪なのかな!
悔しくなるけれど、キスをすれば『石油王になる』なんて馬鹿げたことを止めてくれる。今までもそうだったから、仕方がないけど私のファーストキスを捧げないと、いけないだろう。
背の高い彼に近づくように、背伸びをして顔を近づける。ギュッと目を閉じると唇を真一文字に引き結び、彼の唇のある所にあたりをつけて唇を寄せた。
「んっ」
心臓が爆発するほど、トクトクと鳴っている。恋愛初心者の私にできることなんて、これが精いっぱいだ。
「こ、これでいいですか?」
まぶたを開けて身近に迫る彼の顔を上目遣いで見ると、彼はニタリを意地悪な顔をした。
——えっ、ダメだったのかな?
もしかすると唇ではないところにキスをしちゃったのかな? と思ったけれど、社長は「良くはないな」と言った途端、私の後頭部に大きな手を回し、整った顔を近づける。
「んっ、んんっ……っ!」
熱い唇が寄せられ、口をこじ開けられる。彼の肉厚の舌が入り込み、蹂躙していく。唇を食べられるかと思うほどに食まれ、裏側の柔らかいところを重ねてきた。
圧倒的な質感に息もできず、涙目になって彼の厚い胸板を叩くけれど彼は動じない。
「んーっ!」
初めての経験に心が追い付かない。目の前が潤んできたところで、彼は名残惜しそうに唇を離した。
ようやく呼吸ができ、はぁはぁと私は空気を吸い込みながら、苦しさの原因である男を見上げる。
「こっ、これで、いいんですか?」
ファーストキスを捧げたからには、発言を撤回して欲しい。私はすがるように彼を見た。けれど。
「いい、と言いたいところだが」
社長は私の頬に手をあてると、猫を可愛がるようにすーっと撫でて顎を上げる。そして形の良い口角をくっと上げた。——まさか!
「だが、もう遅い。速水!」
「えっ」
私の顎を持ち上げた手をそのままに、一誠社長は第一秘書の速水さんを呼んだ。この人は社長の全てのスケジュールを管理している強者だ。常に殿に従う侍従のように静かに、そして全てを把握して駒を動かす人。
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