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「速水、こいつのパスポートは用意したか?」
「はっ、こちらに用意しております」
いつの間にか部屋にいて、黒子に徹している速水さんが白い手袋で差し出したのは、なんと私の名前のパスポートだった。
「えっ、な、なんでっ? なんで私のパスポートが?」
慌てふためく私の耳に、今度はパタパタパタとプロペラが空気を切る音が届く。——嫌な予感がする。
鏡張りのフロアの前面に姿を現したのは、聖財閥の所有するヘリコプターだった。ビルの屋上にあるヘリポートに到着するために、飛行場から飛んできたのだろう。
まるで映画のワンシーンのように、ヘリコプターをバックにした社長が口角を上げて微笑んでいる。
「綾大路ゆかり、オレについてこい」
「は? はいっ?」
速水さんは私の手にパスポートをのせると、しっかりと握らせる。バラバラバラとヘリコプターの音が聞こえると共に、社長は私の手をとった。
「さ、ベガスに行くぞ」
「ひゃい?」
机に置いてあった私の鞄を持った社長が、颯爽と歩きはじめる。ここにきてようやく事態を把握しつつある私は、速水さんに助けを求めるように見つめた。けど、彼はメガネの縁をくっと持ち上げるとキラリと光らせる。
「綾大路君、社長をよろしく頼むよ。必要な物は、セキュリティに頼めば経費で購入できるから」
「ひゃ、ひゃいっ?」
扉の外まで引きずられるように運ばれた私は、あれよと言う間に屋上にたどり着き、ヘリコプターに同乗する。
「なんでこうなるの?」
爆音の響くヘリコプターの中で隣を見ると、社長はしてやったりと顔をほころばせた。
「しゃ、しゃちょおっ!」
「たまにはいいではないか。特別手当をつけるから」
「……特別手当!」
それを聞くと「はい」と言うしかない。突然振り回されるのは、これに限ったことではない。でも、さすがに海外出張は事前に言って欲しかった。
口をパクパクとしたままヘリコプターは成田へ向かって飛んでいる。この社長のすることはとてつもなく贅沢なことばかりだ。そして、それが良く似合う人でもある。
「いっぱいつけてくださいよ、手当」
「ああ、わかっている」
口元に弧を描き、彼は機嫌よさそうに笑っていた。
——もうっ、仕方ないなぁ……
半分呆れつつも、自分を選んでくれたことが嬉しかったりする。ファーストキスは何だったんだと思うけれど、憧れていた彼に捧げられたのだからよしとする……ことにしよう。
まだ熱が残っているようで、指をそっと唇にあてる。
飛行機はやっぱりファーストクラスで……私は密かにときめきながらシートに横たわった。
◆◆◆
思い返すと、社長はとんでもないことばかり言っている。
「ゆかり君、快晴だな。今日は屋上から飛び降りてみようか」
「はっ、はい?」
目を丸くした私に、彼は何でもないことのように「パラシュートで大丈夫かな」とのたまった。
休日に見たハリウッドのアクション映画で、ヒーローがビルから飛び降りながらパラシュートを開き、カッコよく着地したのを真似したくなったに違いない。
映画館の隣の席で、私もその場面を見ていたから知っている。うん、あれはカッコ良かった。
——でも、そんなことさせられない。
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