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イギリスにいる間は、相手が日本人であっても日本語を使わないように言われている。ブリティッシュ・イングリッシュのアクセントを強めて問いかけると、聞き取りにくかったのかキョトンとした顔を向け固まっている。
——なんだ、可愛い子だな。
幼いとはいえ、顔の造作は整っている。ふわりとした髪に大きな瞳、小さな鼻にぷっくりと膨らんだ唇。目を大きく見開きながら口をあけていた。
『王子様?』
顔を上げた少女は、オレの顔を見ながら嬉しそうに顔をほころばせる。まるで大輪の花が開くように、笑っていた。
ドクン、とひと際大きく心臓が鳴る。——な、なんで小学生にときめいているんだ、オレは?
慌ててトクトクと鳴る心臓に手をあてた。大丈夫だ、何かの勘違いに違いない。そう思いながらも目をキラキラとさせた彼女はさらに話しかけてくる。
『すごーい! かっこいい!』
『そ、そうか?』
率直に褒められて、心が浮き立っていく。何といっても、オレは髪の毛を金色に染め、瞳が青くなるようにコンタクトをしていた。——完全なる厨二病だ。
なぜか当時、イギリスの貴族を描いた本にドはまりしていたオレは、今やだれも着ないようなフリフリのついたシャツにひざ丈のブリーチズを穿いていた。だから彼女が、ゆかりが王子と見間違えたのも仕方がない。
『お名前は何ですか?』
『あっと、オレは……アンロニーだ』
『アンロニー様!』
思わずさっきまで読んでいた、本のヒーローの名前を口にしてしまう。多分、自分とは違う何者かになりたかったのだろう……思春期とは厄介なものだった。
別荘には大人しかいない。家庭教師たちは皆厳格で、髪を染めたオレを冷めた目で見ている。それなのに――
ゆかりはまるで、夢にまで見たアイドルが目の前に立っているかのように見つめてくる。大人によって傷つけられた自尊心が、その視線を受けると息を吹き返す。
『アンロニー様、私の名前はキャサリンです』
『キャサリン』
彼女はどう見ても日本人だ。黒髪黒目、なにより使っている色鉛筆は日本のメーカー名が書かれている。
それなのにキャサリンと名乗り完璧な英国英語を話す。二人とも偽名で会話するのがおかしくて、そのまま本名を聞かずに過ごす。彼女は少しおっとりとしているのか、オレの嘘を信じきっていた。
『それで、アンロニー様は白馬に乗るのですか?』
『いや、僕の馬はそこにいる栗毛のサラブレッドだよ』
『……まぁ! 素敵!』
一拍あけて、ゆかりは手を叩きながら感嘆の声を上げた。
――やっぱり女の子は、白馬に乗った王子様に憧れているのかな……
なんだか期待を裏切った気がして、つい余計なことを口走ってしまう。
『いつか、白馬に乗って君を迎えに行くよ』
『本当に? 嬉しい!』
金色の髪をしたオレは、最後までアンロニーを演じきった。ゆかりの目には、本物のイギリス人の小さな紳士に映ったに違いない。その日、オレはめいっぱい彼女に優しく、そして淑女のように扱った。
彼女がどこまで覚えているかわからないが……オレの心には、ゆかりの笑顔がまるで抜けない棘のようにずっと残っていた。
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