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注文を受けてきびきびと無駄なく、そして優美な仕草で作業する市成を茉由は嬉しそうに見つめる。
マスター、私の『いつもの』はね、マスターのことなんだよ。
初めてこの店に来た日から2年以上ずっと、いつもいつも、私はマスターのことだけ見てきたよ。
マスター以外はいらないの。
たとえ手に入らなくても。
振り向いてもらえなくても。
その瞳の中に別の誰かがいてもかまわない。
ここでこうしてマスターを見ていられればそれでいい。
それだけでいい。
そして願わくば、あなたにはいつも笑っていてほしい。
それだけが私の唯一の望み。
「茉由ちゃん、これ」
作業の合間、市成はカウンターの茉由の前に先日のハンカチを置きながら言った。
「ありがとうございました」
そう言って微笑む市成の指に絆創膏はもうなかった。
「どういたしまして」
茉由はきちんと洗われてアイロンがかけられているそのハンカチを見て笑みを返した。
「お礼にこちらを召し上がってください」
そう言って市成が差し出したのは美しい山吹色のケーキが乗った皿だった。
この店では見たことがないものだ。
「マスターこれは?」
「安納芋のタルトです。趣味で作った試作ですから」
マスターはそこまで言うと、茉由に顔を近づけた。そして唇の前に人差し指を立てると小さな声で囁いた。
「他の方たちには内緒ですよ」
その言葉に茉由はとびきりの笑顔とともに大きく頷いた。
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