「疲れた」と言わない人

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「疲れた」と言わない人

 あの頃は良かったと、そんなことばかり思う日々。 あの頃にもっと努力していたら・・・と思うそんな帰り道。 それは、今の生活に納得がいってないからそう思うだけで、結局、私の人生はこんなものなんだと思う。  仕事帰り、疲れきった身体でバスに揺られる。 私だけではなく、他の人達も、疲れているだろう。 今だって、過去の良かった時を思い出して、その日の傷を癒しているのかも知れない。 運転手も疲れているだろう。 家に帰るのを心待ちにしているかも知れない。 そういう風に考えるようになったのは、決して自分の努力ではない。  私は・・・ そういう時の私は、「疲れた」と決して言わなかった、昔の恋人を思い出す。 あの人は、「疲れた」と口癖のように言う私や、疲れた態度で佇む赤の他人にまで、気を遣ってるように見えた。 かなり精神的に疲れるであろう仕事をしていたのに、人のことばかりを気にしていた。   あの人は本当に、どうやってストレスを発散していたのかと思うほど、ネガティブなことを言わない人だった。 あんな良い人を、どうして私は簡単に手放してしまったのだろうか。 その後悔は今でも、辛いことがあったり、寂しかったりすると特に、都合よく脳内に登場して私を苦しめる。  あの恋は、私にとって遅すぎる初恋だった。 思春期でもないのに、心の中は大騒ぎだった。 むしろ、遅すぎたから、他の人よりも騒いでいたのかも知れない。 初恋は、遅すぎれば遅すぎるほど、失った時にキツイと思う。 何も知らない子供が恋するのとは違う。 私からすれば、幼い子供の恋なんて、恋と呼ぶに値しないとさえ思っていた。  バスを降りたら、少しだけ解放感。 明日の仕事は嫌だけど、この夜は私だけの自由時間だから。   アパートまでの徒歩約10分。 帰ったら何食べよう、何飲もう、何観よう・・・ もしあの人と別れてなかったら、今頃私は・・・ 初恋が実っていたら、どんな幸せな日々が・・・  結局あの人のことばかり考えて、何を食べるのかも、何を飲むのかも、何を観るのかも決めていない。 今が幸せなら、あの人のことも思い出さないのにな・・・  アパートに着き、郵便受けを開けてみると、珍しく封筒が入っていた。 いつもは、広告ばかりなのに。  宛名を見た私の心臓は、ギュンとなり、ドキッとなり、ジーンと熱くなる。 「こんなこと、あるんだ」 つい微笑んでしまう。 ニヤけてしまう。  急いで部屋に入り、真面目なあの人のように、しっかり手を洗い、うがいをしてから、気持ちを落ち着けてその封筒を開ける。 「まさか当たるなんて・・・」 それは、私が初恋よりもずっと前から好きな俳優の、サイン入りポラロイド。 今まで雑誌を買うたび、何度応募しても当選したことはなかった。 応募しながらも、死ぬまでにその運が自分の元に来るなんて思ってもなかった。 「ちょっと、幸せかも・・・」  初恋のあの人への回想は、少しの間お休みできそうだ。 久しぶりに訪れてくれた幸せで、私は普段よりも元気に生きていけるはず。  あっ、そういえば・・・ あの人が雑誌を買ってきて、私の好きな俳優のプレゼント応募の為に、愛読者ハガキを一生懸命書いてくれたことがあったな・・・
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