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「……なんだよ、これ」
翌朝、だるい腰を擦りながら出社した保科は、デスクの上に無造作に投げ置かれた二つの紙束を前にして呆然と呟いた。紙束と言っても、厚みだけで言えば電話帳ほどもある。
茶色いクラフト紙を取り去って中を確認すると、紙束は来週頭に発売される新薬のパンフレットだった。もう一つの束はパンフレットの中身を凝縮した一枚もののリーフレットだ。ずっしりと腕にくる重みから、パンフレットは五十部、リーフレットはその倍の分量といったところだろう。
「まさかこれを全部バラまけって?」
「ああそれな。さっき部長が置いて行ったんだよ。お前昨日直帰して部内ミーティングサボったろ。ペナルティのつもりじゃないの」
デスクの前で魂を抜かれたように立ち尽くす保科に、同期で友人の井沢篤史が外回りの支度をしながら告げる。その声がどこか面白がっているように聞こえるのは、気のせいではないはずだ。
「井沢、そういやお前、先月誕生日だったよな。ちょっと遅くなったけどこれ――」
プレゼントだ、と分厚い紙の束を笑顔で手渡そうとすると、問答無用で頭を叩かれた。
「――っ! 痛えな!」
「面白くない上にイラつく冗談はやめろ。お気楽な独り者のお前と違って俺は忙しい」
さっきまで浮かべていた薄ら笑いを引っ込めると、友人は「じゃ、お先」と言い置いてさっさとオフィスを出て行った。
新婚ホヤホヤの友人は、マイホーム購入を夢見て仕事に精を出している。直帰の鬼と呼ばれていた数か月前までの姿が嘘のようだ。
人は変われば変わるものだと、白けた気分で友人の出て行ったドアを眺めていると、左隣からすっかり身になじんだ熱い視線を感じた。チラと目をやれば、後輩MRの瀬名千文が、勢いよく席から立ち上がる。
「あの、保科さん。俺まだ時間に余裕あるんで、よかったらリーフレットの袋詰め、手伝わせてください」
自分より少し高い位置にある生真面目そうな顔を見上げ、保科は内心で溜め息をつく。
余裕があるというのは間違いなく嘘だ。
医者や薬局長からすれば新人MRなんて、何度叩き落としてもうるさく纏わりついてくる羽虫のようなものでしかない。最初のうちは忙しいを理由に門前払いは当たり前。手土産片手にしつこく通い続け、やがて「で、どこの人だっけ?」と、羽虫から人へと昇格する。
それなりに優秀と評されている保科でさえ、顔を覚えられるまで半年、きちんと話を聞いてもらえるようになるには一年かかった。
瀬名は今年で入社二年目。今が一番大事な時期だ。他人の手伝いなどしている時間があれば、一つでも多くクリニックを回りたいというのが本音だろう。
だがそんな事情は百も承知で、保科はわざとらしく驚いてみせた。
「いいのか? マジで助かるよ。この後数件アポ取ってあるし、間に合うかなってちょっと焦ってたんだ」
狙った相手を落とす時のとっておきの笑顔で言うと、瀬名は男らしく整った顔を伏せ、うろうろと視線を泳がせた。
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