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「そんな大した手伝いはできませんけど……」
(ほんと、わかりやすい奴)
戸惑う声も熱を帯びた視線も、初々しい恋心によるものだという事は知っていた。知っていて、保科は彼の好意を利用するのだ。
我ながら人でなしだと思いながらも、瀬名に対して同情的な気持ちにはなれない。
保科が新人の頃は、とにかく毎日必死だった。時間が許す限り営業先に出向き、ひたすら顔と名前を売った。うけのいい外面を活かして媚びる事も厭わず、プライベートな時間のほとんどをデータ収集と資料作りに当てた。
井沢から気楽な独り者と揶揄される保科だが、今でも勉強会や学会には必ず出席するし、他所のMRとの情報交換も欠かさない。
だからだろうか。尻に殻をつけたヒヨコのくせに、青臭い恋愛感情にうつつを抜かしている瀬名を見ていると、わけもなく苛立つ。
これがただの八つ当たりだという事はわかっている。だけど向けられる視線がひたむきであればあるほど、無性に虐めたくなった。誰にも踏み荒らされていない真新しい雪を見ると、足跡をつけて汚したくなるのと同じだ。
「じゃあさっそくで悪いけど、先にミーティングルームでパッキング始めててくれるか? 俺は部屋の使用許可をもらってくるから」
重い紙束を手渡しながらそう言うと、瀬名の顔にわずかに落胆の色が浮かんだ。おそらく一緒に作業ができると期待していたのだろう。予想通りの反応に満足し、保科は会心の笑みを浮かべる。
「悪いな。お礼に今度晩飯でも奢るよ」
そう言って背中をポンと叩いてやったら、瀬名は唇の端をわずかに持ち上げて、控えめに笑った。浮かれたり沈んだり、忙しい事だ。
ドア前で瀬名と別れ、保科は腰を庇いながら一直線に喫煙ルームに向かった。わざわざ許可なんて取らなくても、朝からミーティングルームを使用する事などまずない。
「はー、だる……」
ヤニ臭いソファーに腰かけ、今日何度目かの溜め息を漏らす。身動ぎする度に尻の奥がツキンと痛み、己の愚かさに歯嚙みした。
色事は駆け引きだ。瀬名じゃあるまいし、いくらいい男だったからって、かまってオーラ全開で声をかけるなんて浅はかにもほどがある。心なしかスースーする左手首を撫で、保科は眉を顰めた。これじゃ自分なんかを想って一喜一憂している瀬名の事を笑えない。
「俺もあいつも大概間抜けだよなあ」
紫煙と共に吐き出した呟きは、誰もいない喫煙ルームに虚しく響いた。
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