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 仕事を終えて瀬名と合流したのは、午後九時を少し回ったところだった。  瀬名のリクエストは「落ち着ける店ならどこでも」という慎ましいものだったので、四谷にある行きつけの割烹料理屋に連れていく事にした。味は確かな上に店の雰囲気もいい。保科のお気に入りの店だ。  引き戸を開けて二人だと告げると、カウンター席に案内された。席に着き、店員に勧められるまま料理をいくつか注文する。 「お飲みものはどうされますか?」 「そうだなあ。いつも日本酒ばっかりだし、たまには甘いのでも飲んでみようかな。あ、この杏ソーダっての美味そう。俺これにするわ。瀬名は何にする?」  瀬名は確か下戸だったはずだ。新入社員歓迎会で部長から酒を勧められ、今にも死にそうな顔でグラスを空けていた。トイレに駆け込んだ瀬名の介抱をしたのは、当時教育係を任されていた保科だった。青白い顔で「迷惑をかけてすみません」と何度も謝られ、ノリで瀬名を煽った上司が憎らしく思えたものだ。  かつての初々しい姿を思い返していると、メニューから顔を上げた瀬名と目が合った。同じ場面を思い出していたのか、気まずそうに目を伏せる。 「じゃあ、俺も同じものを」 「灰皿はお持ちしますか?」 「大丈夫です」  それには保科が答え、上着を脱いでネクタイを緩めた。瀬名も保科に倣い、上着を脱いでシャツの袖を捲る。シャツの下から現れた逞しい腕は、うっすらと日に焼けていた。  顔も好みだが、体も理想的だ。この腕に汗が浮いたら、さぞや色っぽい事だろう。 (つくづくノンケってのが惜しいな)  間を置かず卓に置かれた飲みものを手にして、お疲れと軽くグラスをぶつける。次々に運ばれてくる一品料理を突きながら話すのは、当然ながら仕事の話だ。とりわけ盛り上がったのは、保科が部長から押しつけられた配合剤の話題だった。 「やっぱり簡単じゃないな。プレゼンするにも大した売りがないしさ」  時間の許す限りクリニックや調剤薬局を回ったが、新薬とは名ばかりの配合剤のせいか、どこも反応は渋いものだった。いくらかは注文が取れたものの、目標販売数にはほど遠い。瀬名の方も同じらしく、その表情は硬かった。 「意外にも手強いのは薬局さんの方ですね。合剤なら後発品で充分と考える先生が多くて」 「合剤も後発品も発売されない月はないくらいだし、ライバル多すぎだよな。堂々と接待ができなくなったのは痛い」  医師への接待は、現在では規制されている。だが相手側からそれとなく催促される事は今でもあった。経費には上限が設けられているので、はみ出し分はMR持ちだ。成果が上がらない時や、しつこく誘われた場合は、仕方なく自腹を切る事もあるが、全てに応えていたらきりがない。 「ドクターを接待でもてなしたところで、そんなに売り上げに影響するものでしょうか? 美味しいものなんてこれまで飽きるほど食べてきてるでしょうし」 「食うのは飯だけじゃないって事だろ。実際俺らより少し上の先輩たちは、おこぼれでずいぶんいい思いしたみたいだからな」  肉体的にも精神的にもタフでないとやっていけない職業だからか、医療従事者にはあらゆる意味でアグレッシブな質の人間が多い。豪勢な食事を堪能した後、夜の街へくり出し、文字通り先生方と裸のつき合いをしたという先達の英雄譚を、新人の頃は散々聞かされた。 「今も接待営業が可能だったら、瀬名なんか一晩で相当売り上げたんじゃないか。若いのに仕事ができて男前なんて、飢えた女医やらナースやらが放っておかないだろ」  からかい混じりに言ってやると、瀬名がムッとして口をつぐんだ。 「なんだよ、いい男だって褒めてるのに」 「そういうのはフェアじゃない気がするので、接待営業がなくなってよかったです。そもそもビールも飲めないのに接待なんて、ありえないじゃないですか」  そう言って眉を顰め、ジュースで満たされたグラスを、覆うように両手で掴む。  いつもは熱っぽく見つめてくるくせに、今はこっちを見ようともしない。おまけにその素っ気ない物言いはなんだと、身勝手な苛立ちが胸に湧く。  保科は卓に行儀悪く肘をつき、瀬名の顔を覗き込んだ。
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