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6
「そうは言うけどな、一度の接待で注文が取れたら何度も同じとこに足を運ばなくていい分、他に時間を割ける。その結果、残業が減って会社的には人件費の節約になるだろ。先生方も喜んでくれるし、一石二鳥じゃないか」
「接待がなくても残業しなくても、注文は取れますよ。会社がいい製品を作って、先生方にそれを正しく伝える事さえできれば――」
「は! いかにも現実が見えてない新人の言いそうなきれい事だな」
しまった、つい口が滑った。そう思った時にはもう遅かった。瀬名が息を呑んで押し黙り、場に気まずい空気が流れる。
(労うつもりで誘ったのに、言い負かしてどうするんだよ)
「まあ正論ではあるよ。つーかお前全然飲んでないじゃん。何か他の飲みもの頼むか?」
重い空気に耐えられなくなった保科は、そうそうに話を切り上げる事にした。変な汗が出たのでシャツの袖をまくる。日に焼けにくい生白い腕は、瀬名と違ってお世辞にも逞しいとは言えない。
「……時計は?」
「ん?」
「クロノグラフ、まだ新しかったでしょう?」
指摘されて左手首を見下ろす。つい昨日の夕方まであったはずの重みは、今はそこにない。存在感のある腕時計がなくなると、骨の出張った手首がやけに貧相に見えた。
「ああ、あれな。いつの間にかなくなってた」
「なくなってたって……、まさか落としたんですか? どこで?」
「さあな。まったく記憶にねえわ」
実際は一晩限りの相手に盗まれたのだが、バカ正直にそんな事を話すわけにはいかない。
左手首に視線を感じ、保科はまくったばかりの袖をそそくさと引き下ろした。いかにも潔癖そうな男にじっと見つめられると、爛れた私生活を咎められているようで、なんとなくばつが悪い。
「保科さんってそういうところありますよね」
「そういうところ?」
「人の事にはよく気がつくのに、自分の扱いは適当っていうか、ぞんざいなんです。さっきも俺に気を遣って迷わず灰皿断ったでしょう? 本当はお酒も飲みたかったんじゃないですか? なのにつき合って飲みたくもないジュースなんか飲んでる」
保科はヘビースモーカーだが、同行者が喫煙者でない限り煙草は吸わない。健康を害するとわかっていて我慢を強いるほど傲慢ではないつもりだし、煙の行方を気にしながら話すのは億劫だ。酒にしても同じ事で、自分だけ酔っても仕方がないような気がしてしまう。
これまでそんな話を誰かにした事はない。それを六つも年下の男に、わかったように語られるのは正直面白くなかった。
「へえ? 瀬名は俺の事ずいぶんよく見てるんだな。もしかして俺に気があるとか?」
わざと声に蜜を絡ませ、思わせぶりな視線をくれてやる。ちょっとからかってやるつもりが、瀬名はなぜか真顔になり、じっとこちらを見返してきた。
「おい? 冗談だって。マジに取るなよ」
「保科さんは人目を引くんですよ。色男だし、仕事はできるし、人としても尊敬できる。保科さんを目で追うのがもう癖みたいになってて、自分でもどうしようもないんです」
「は……、なんだよそれ。お前が言っても厭味にしか聞こえないって」
どうにかそう返したものの、内心ではひどく動揺していた。
てっきり赤い顔をして狼狽えるかと思ったのに、やけに真剣な表情で掻き口説かれた。てらいのないストレートな誉め言葉に、首の後ろがムズムズする。
「……保科さん、もしかして照れてます?」
「はあ!? 照れてねえよ。何言ってんだ?」
思わず大きな声が出てしまい、他の客たちの目が一斉に保科に向けられる。いい大人が食事中に大声を出すなんてカッコ悪い。
保科は浮かせかけた腰を下ろし、氷で薄まった杏ソーダを勢いよく飲み干した。そんな保科を眺めて、瀬名は笑いを嚙み殺している。
(なんで俺の方がやり込められてるんだよ。相手は瀬名だぞ?)
どうも調子がおかしい。いつの間にか、瀬名のペースに載せられている気がする。
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