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ボイスレコーダーの声
1人用 女性より
一人の女が、バイクを降りてまで録音した、短い記録。
―――――
私は今日、むせ返るような金木犀の香りたつ中で、虹を見つけたのです。
もちろん、ただ見つけただけではこのようにわざわざ記録に残したりは致しません。それというのも、何という神の悪戯でしょうか、私がそれを見た景色が、その光景があまりにも美しかったからなのです。確かに私がその時、漣ひとつない湖のような激情に駆られていたことを、覚えておくためなのです。
私はそれを原動機付き自転車に乗り、観月橋の上から見ていました。宇治川にもう一本橋を架けるように、駅から発車した電車の上へ、それはもう何の文句の付けようも無いくらい完璧に虹がかかっていたのです。やがて五分ほど立ち、道がほんのり左にカーブして虹の足が私の行く道に降りてまいりましたがしかし、ついぞその足に追いつくことはありませんでした。
今頃あの電車の中では私の親友と私の恋人が、暫しの逢瀬を楽しんでいることでしょう。嗚呼、世に祝福された人というのは、正しく彼らのことを言うのでしょう。
私と恋人は、確かに愛し合っております。他者との逢瀬を今も尚しているだろうお人に対して何を言っているのかともお思いでしょうが、確かに愛し合っているのです。親友と恋人と私は、幼き頃から仲の良い関係でした。二人とも気の弱い私に優しく接してくれたものです。二人は私のことを愛してくれましたし、私も二人のことを愛しておりました。互いに嬉しいことがあれば我が事のように喜び、互いに悲しいことがあれば持ちうる全てをかけて悲しみを和らげました。
私たち三人は、愛し合っていました。
地獄の業火に身を焼かれようと、決して償うことのできない罪やもしれません。しかし私には、その手を取る以外の選択肢が見つからなかったのです。愛し合う仲というものは、どうして二人で完結せねばならないのでしょうか。私どもは其れほどまでに、針の筵にさらされなければいけないことをしていたのでしょうか。私の腕は奇しくも二本あり、私には、私たちには愛する人が二人いました。互いに手を取り合うことは、必然でした。
しかし私には、二人を地獄へ連れて行く強さはありませんでした。共に不幸になる勇気も弱さも、持ち合わせてはいませんでした。
あの電車は、親友の実家へと向かいます。近くの駅で降りたら、バスで山を登り、川を越えて実家へ、二人が新しく住む家へと向かうのです。両親に挨拶を済ませれば、二人はそちらで暮らし始めます。もうこの町へ戻っては来ません。
あの電車に乗っているのは、私の親友と恋人です。どちらが親友で、どちらが恋人かは定かではありません。どちらも恋人であるという事実は、大人になった世間には異質で歪で、誰にも、私たちにも受け入れられることはありませんでした。気の迷いや慰めあいではありません。私たちはたしかに愛し合っていて、確かに恋でした。
それでも三人で生きていくには、何もかもが足りなかった。
あの電車には私の愛する二人が、私を愛する二人が乗っています。
むせ返るような匂いはもうしません。けれども明日また私は観月橋を渡り、むせ返るような金木犀の匂いを浴びるのでしょう。
あの光景の美しさを、思い出すのでしょう。
:金木犀…きんもくせい
:漣…さざなみ
:逢瀬…おうせ
:針の筵…はりのむしろ
:奇しくも…くしくも
:歪…いびつ
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