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 その朝に限って、7時半にセットしておいたスマホのアラームが鳴らず、目が覚めたら8時を過ぎていた。  あわてて飛び起き寝ぼけた頭で、なんで夫は起こしてくれないんだろう、そう思った。理由はわからないが、よほど頭がぼおっとしてたに違いない。普段から寝起きはいいほうだが、なぜか夢うつつの状態が続き、寝室がある2階から階段を降りようとして何度も足を踏み外しそうになった。  ダイニングへ行くと、テーブルの上にいつもの朝食の皿が並べられていた。  パンと目玉焼きとミニトマトを添えたレタスを千切っただけのサラダ。もう何年も食べ慣れた味。私はぼんやりしたまま椅子に座ると、なんの迷いもなくまずはサラダを。そしてパンを千切って口に入れ、ハムが添えられた目玉焼きを食べる。    そこで、はっとした。    パニックになって、思わず皿を放り投げた。皿は床に落ちて粉々に割れたが、そんなことを気にしている場合じゃない。  洗面所に飛び込み、食べてしまった朝食を全て吐き出した。恐怖で心臓が止まってしまいそうだった。  私が作った朝食でないことは確かだ。なぜならそれは夫が作る朝食の味、そのものだったから。  料理好きの夫は、それが至ってありきたりな朝食メニューであろうが、海外から仕入れたスパイスを加えたりなど趣向を凝らしていた。その味は私では絶対に再現できない。  蛇口から猛烈な勢いで水が流れ落ちる洗面器を見つめながら呆然としていると、ふと背後から耳元で囁く声がかすかに聞こえる。『ゆうさん、だいじょうぶ?』 はっとして顔を上げて鏡を見たが、そこに映っているのは焦燥し切った私の顔だけだ。振り返って叫ぶ。「そこにいるの!?」だが、返事はない。誰もいない。それは空耳だったような気もする。だが、耳元から首筋にかけて、まるでたくさんの線虫が這いずり回っているような、ぞわぞわとした感覚が苦しいほど心をぎゅっと締め付けているのはなぜ。  洗面所を飛び出して、家じゅう夫の姿を探してまわる。今や恐怖というより、怒りが(まさ)っていた。もう、かくれんぼなんかまっぴらだ。いるならいるで、姿を現しなさいよ!  だが、夫はどこにもいない。テーブルの上にある朝食を除いて、その気配すら残されていなかった。  私は崩れるように、リビングのソファにからだを投げ出した。強いて落ち着いて考えることだけに集中し、そしてひとつの可能性に行き当たる。  夫は家に帰って来ているんだ。まだ私が寝ている、おそらく朝方だけ。  掃除したり、朝食を作ったりしたのち、再び出て行ってしまう。なぜそんなことをするのかは、さっぱりわからない。    不倫して、私の顔をまともに見えないから? これは、せめてもの償いのつもり?  だけどその行為は、私を恐怖に落とし入れるだけだ。そう考えると更なる怒りが湧いてくる。  いっそ家の鍵を変えてしまおうか。そんなことまで考える。  恐怖、困惑、怒り。様々な感情が絡み合うざわめいた気持ちに、どっと疲れていた。  家を出る時間はとっくに過ぎている。今からだと完全に遅刻だ。休んでしまおうかと思ったが、今日は会社で3ヶ月に一度のパート面談があることを思い出した。仕事の契約更新も含む重要な面談で、休むわけにはいかない。  仕方なく、ソファから強張ったからだを無理矢理起こしにかかった。
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