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   夫はネクタイを絞めながら、ふと思い出したかのように、鏡に映った自分を見つめたまま静かな口調でこう言った。 「あ、今日取引先と飲むんだった。帰り、遅くなるかも」  35歳の私より3つ年上の夫は中堅のシステム会社で営業をしている。仕事柄、取引先に接待することも多い。これまで何度も、その言葉は聞いてきたし、疑ったことも一度もなかった。  だけど、その朝に限って。  直感的に、嘘をついていると思った。それは、その声で? 話し方で?  いいや、私にもわからない。夫は普段の話し方と変わらずそう言ったのに、突然、嘘だと確信した。  とたんに空からスッと落ちてきた黒く醜い手が、私のなかへと侵入し、心臓をいきなりギュッと鷲掴みにする。その痛みに思わず顔をしかめたが、夫は目を逸らしている。 「だから、夕飯いらないよ」 「そう、わかった。遅くなるなら、先に寝てるね」  もう一人の私が、さりげなく返事する。至って何事もない感じで、ごく自然な夫婦の会話のように。 「うん、それがいい。ゆうさんも仕事で疲れてるだろうから、ゆっくり休んで」  年季の入った黒い革製のビジネスバッグを手に持つと、夫は腕時計に目をやりながら玄関へと向かう。  その腕時計は結婚した7年前に、結納返しとして私の親がプレゼントしたものだ。スイス製のそれなりに高価なブランド品。夫はそれをとても気に入っていて、ずっと着けていた。 「じゃあ、行ってくる」 「うん。行ってらっしゃい。気をつけてね」 「ゆうさんも、ね」  靴を履いた夫はいつもと変わらずに、人の良さそうなにこやかな笑みを私に向けると、ドアを開けて出て行った。  夫を見送ると、私はどこか浮ついた気持ちのまま、自分の会社に行く支度をする。  胸騒ぎが止まらなかった。それでも、一通りのルーチンを終えて家を出た。  外は晩秋らしく、冷え冷えとした青空が広がっていた。ひんやりとした風が顔を撫でる。だけど寒いという感覚はどこかに消えていた。    駅に向かう道すがら、いつもより早足で歩きつつ私は考え込んでいる。  なぜ、夫が浮気してると、思ったんだろうって。それが確信に至った理由は何?  でも……浮気してるのは、間違いない。それはもはや、事実なんだ。  取り憑いた鉛のように重い感情は、私の心の中をすっかりと埋め尽くしていた。
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