勇者の兄と落ちこぼれの弟

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・優秀な兄と比べられ、罵られてきた少年。周囲を見返すため、悪魔と契約して……。  真っ赤な夕陽がグジャルアナレナブフ競馬場の芝生を黄金色に輝かせている。競馬場に隣接する子供向け遊戯施設の駐車場を囲うように植えられたイチイの木が眩しい夕焼けを遮ってくれるようで実際はまったく役に立っておらず、日差しを浴びる車内は窓を閉め切っていると耐えられない暑さになっていることだろう。しかし、少年にとって、そんなことはどうでも良かった。車で来たわけでない。ここまで歩いてきたのだから、車内が暑かろうが何だろうが知ったことではなかった。  約束した相手が指定したのはグジャルアナレナブフ競馬場を望む高台だった。そこはシークィムミゲイルの丘と呼ばれている。少年は丘の頂上へ向かう傾斜の緩やかな砂利道を登り始めた。夕陽を浴びて赤く染まった白い砂利道を登る途中で足を止め、馬の走っていない競馬場を何度か見る。競馬に興味があるわけではない。シークィムミゲイルの丘は墓地だった。そこに肩を寄せ合うようにして建てられた石造りの十字架や簡素な平墓石を見ていると、気分が滅入ってくるから、他を眺めているだけだ。  だけれども、緩やかな砂利の坂道を登る途中で何度か足を止めるのには、はっきりとした理由があった。少年は丘の頂上付近で待ち合わせた人物と顔を合わせるのが嫌だったのだ。もっとも、その人物との接触は少年が望んだことだった。どうしても彼は、その相手と会わねばならなかった。たとえ、相手が悪魔であったとしても。  やがて少年は、シークィムミゲイルの丘の頂上へたどり着いた。それらしい人影は見えない。いや……視線を感じる。どこかで誰かが、自分を見ている! と彼は確信した。だが、その人物がどこに隠れているのか、それは分からない。  墓標と墓標の間をミツバチの群れがブゥンブゥンと舞い狂っていた。手で追い払う。遠くで鐘の鳴る音が聞こえてきた。シルバスタ寺院の鐘の音だろう。少年は昔、兄の偉業を祝福する祭典でシルバスタ寺院の鐘を突く大役を仰せつかったことがある。あのとき彼の兄は宇宙の彼方から飛来した黄金色の異次元生命体を撃破し、その地球侵略の野望を打ち砕いたのだった。  歴代最強の誉れ高き勇者と謳われるだけのことはあると、人々は称えた。  その時を思い出すと、少年の心は今も熱くなる。兄のことを心の底から誇りに思ったものだった。シルバスタ寺院の鐘を突きながら、自分もいつか、兄のようになりたいと願ったものだった。大きくなったら、必ず! と。  だが、その夢はかなえられそうにない。大きくなっても、少年は兄のような勇者になれずにいる。体は成長したが、その能力は兄とは桁違いに劣った。兄とは何もかも違うと感じた。努力をしても報われない。むしろ自分は絶対、兄のようにはなれないと思い知らされるだけだった。  周囲の者たちは優秀な兄と弟を比べ、弟の無能力を嘲笑った。少年を励ましてくれる者もいるにはいるが、そういう相手とは少年の方から距離を置いた。優秀な兄と比べられ、罵られる方が、気が楽だった。理由は簡単だ。その分、兄を憎めるからだ。  夕日を浴びて鮮血に染まったように見える少年の顔が、墓場の一点を向いて止まった。そこには、まだ建てられてから日の経っていない真新しい墓標があった。真紅の薔薇の花輪が奇麗な大理石の墓石の上に置かれている。  墓碑銘には、こう刻まれていた。 『ジェイン・ドゥテルア・カリイン。201X-202X。神の突然の思し召しがゆえに』  この墓石の下に眠る女性は、少年と同じくらいの年齢で亡くなったのだった。どうして亡くなったのだろう、と彼は思った。病だろうか? それとも、交通事故? あるいは、彼が何度も考えたが実行できなかった、自殺だろうか?  考えても答えは出ない。少年はただ、墓石に向かって黙礼した。そのときだった。何かを気配を察して、少年は身構えた。  気が付くとジェイン・ドゥテルア・カリインの墓標の十字架の向こうに、眼の涼しい男が立っていた。黒い半袖のシャツに黒いズボン、そして黒髪と、黒一色だ。瞳の色は青っぽかった。それが男に人間離れした、爬虫類か何かのような雰囲気を漂わせているように少年には感じられた。  ゆっくりとした足取りで男は、墓標の十字架の横を回り込んだ。 「この墓に眠っている娘に、興味があるのか?」  少年は答えない。男は勝手に話し続ける。 「この墓の下で永遠の眠りに就いている少女は、とても可愛らしい娘だった。真紅の薔薇といった派手な感じの女じゃない。清楚で、物静かな、白百合のような乙女だった」  男が何のつもりで自分に語っているのか、少年は理解できなかった。だが、何のつもりで自分に話しているのかと、問い質すこともできなかった。男の異様な迫力に呑まれていたのだ。  男の太い腕が伸び、墓標の十字架の頂部を人の頭でも撫でるかのように掌で撫でた。 「この娘は、ある日の日中、真昼間に、複数の男に暴行を受けて殺された。散々犯されてから、なぶり殺しにされたんだ。奇麗な顔が、あれほど奇麗だった顔が、三倍から四倍くらいの大きさにまで膨れ上がった。それだけじゃない。全身に火傷を負わされた。拉致されて監禁された場所で、タバコやらなにやらの火を押し付けられたんだ。その理由? なんてことはない。死にかけになると、●●●の締まりが悪くなって気持ち良くない。だから、痛み刺激を加えてやるんだ。そうすると、ショックで全身の筋肉が激しくけいれんする。それが良かったんだとさ。捕まった犯人たちは、そう供述していたよ」  少年の心の中に、悲惨な目に遭っている娘の姿が思い浮かんだ。  男は少年の顔を見つめた。 「お前、今、興奮しているか?」  問われた少年は反射的に答えた。 「興奮なんて、していない!」  男はグスリと笑った。 「どうした? どうしてそんなにまでむきになる? 俺はただ、軽い気持ちで尋ねただけだ。か弱い女をいたぶるのが好きかどうか、尋ねただけだ。人間という本音と建て前を使い分ける生き物へのリサーチ活動だとでも思ってくれ」  それは、まともな質問ではなかった。そんな問いかけを初対面の人間にする者が、まともな人間のはずがない!  では、そうだとしたら、こいつは、何者なのか?  少年は男をジイッと見た。 「もしかして、あなたは」  男は頷いた。 「お招きにより参上した。俺は悪魔だ。依頼を聞こう」 ・歴代最強の誉れ高き勇者が“反転”の呪いを受けたことで、“最弱の勇者”となってしまい!?  黄色い朝日がグジャルアナレナブフ競馬場の芝生を黄金色に輝かせている。競馬場に隣接する子供向け遊戯施設の駐車場を囲うように植えられたイチイの木が眩しい朝焼けを遮ってくれるようで実際はまったく役に立っておらず、日差しを浴びる車内は窓を閉め切っていると耐えられない暑さになっていることだろう。しかし、勇者にとって、そんなことはどうでも良かった。車で来たわけでない。ここまで歩いてきたのだから、車内が暑かろうが何だろうが知ったことではなかった。  約束した相手が指定したのはグジャルアナレナブフ競馬場を望む高台だった。そこはシークィムミゲイルの丘と呼ばれている。勇者は丘の頂上へ向かう傾斜の緩やかな砂利道を登り始めた。朝日を浴びて赤く染まった白い砂利道を登る途中で足を止め、馬の走っていない競馬場を何度か見る。競馬に興味があるわけではない。シークィムミゲイルの丘は墓地だった。そこに肩を寄せ合うようにして建てられた石造りの十字架や簡素な平墓石を見ていると、気分が滅入ってくるから、他を眺めているだけだ。  だけれども、緩やかな砂利の坂道を登る途中で何度か足を止めるのには、はっきりとした理由があった。勇者は丘の頂上付近で待ち合わせた人物と顔を合わせるのが嫌だったのだ。もっとも、その人物との接触は勇者が望んだことだった。どうしても彼は、その相手と会わねばならなかった。たとえ、相手が悪魔であったとしても。  やがて勇者は、シークィムミゲイルの丘の頂上へたどり着いた。それらしい人影は見えない。いや……視線を感じる。どこかで誰かが、自分を見ている! と彼は確信した。だが、その人物がどこに隠れているのか、それは分からない。  墓標と墓標の間をミツバチの群れがブゥンブゥンと舞い狂っていた。遠くで鐘の鳴る音が聞こえてきた。シルバスタ寺院の鐘の音だろう。日々の平安を祝福する鐘の音だ。  勇者は昔の出来事を回想した。彼は宇宙の彼方から飛来した黄金色の異次元生命体を撃破し、その地球侵略の野望を打ち砕いたのだった。  その快挙を祝うため華やかな祭典が開催された。祝祭のフィナーレはシルバスタ寺院で執り行われた。そのとき勇者の弟が寺院の鐘を突く大役を任された。兄の偉業を誇らしく思う弟が、興奮で顔を真っ赤に染め、鐘を突いていた情景を勇者は今も鮮明に思い出せる。  あれほど晴れやかな気持ちになったことは、後にも先にもないと彼は断言できた。  そして勇者は、今の自分の窮状について考えた。  彼のパワーは現在、最弱と言っていいほどまでに低下していた。原因ははっきりしていない。調査した医療チームの診断では“反転”の呪いを受けたことが原因のようだが、確定するためには科学の力だけでは足りなかった。謎のシャーマンや占い師まで動員した調査で、やっと“反転”の呪いが原因だと判明した。しかし、それまでだった。“反転”の呪いを解除する方法が分からないのである。歴代最強の誉れ高き勇者が“反転”の呪いを受けたことで、“最弱の勇者”となってしまったのだ。  どうすればいいのか……思い悩んだ勇者は、悪魔に力を借りることにした。悪魔の能力で“反転”の呪いを解除しようと考えたのである。  勇者は悪魔とコンタクトを取った。悪魔は待ち合わせ場所を指定した。そこはグジャルアナレナブフ競馬場を望むシークィムミゲイルの丘の頂上だった。頂上には先客がいた。白百合の花の妖精かと錯覚するような、可憐で優しい表情の娘だった。その娘は勇者を見て言った。 「あなたが約束の相手ですね? “反転”の呪いを解除する儀式を、今すぐ始めます。ですが、ここは目立つので違う場所でやります。ここの丘の地下に、古い納骨所があるのです。普段は鍵が掛けられていて入られませんが、私は合鍵があります。そこなら人目につきません。“反転”の呪いを解除する儀式を、思う存分やることができます。さあ、行きましょう」  白百合のように可憐な娘は妖艶に笑い、勇者の腕を自分の胸の膨らみに挟んだ。 「ちょ、ちょま、ちょ、ねえ、ちょっと待ってくれ」  勇者は女の胸の膨らみをぶるんと揺らしながら腕を引き抜いた。 「悪魔との契約には、対価を支払わなければならないはずだ。違うか?」  当然だ、と言わんばかりに娘は小さく頷いた。 「死後の魂を悪魔に与えることを約束すると聞いている。そうなのだろう?」  娘はニイッと笑った。 「勇者の魂なら、大歓迎ですわあ」 「いや、ちょ、ちょま、なああ、ちょっと待ってくれ」  往生際の悪い勇者に、娘は少々、呆れ果てた様子だった。 「あなたは勇者なのでしょう。それもただの勇者ではなく、歴代最強の誉れ高き勇者なのでしょう? こうしている間にも、地球は宇宙からの攻撃にさらされるかもしれないのですよ。そんなときにあなたが“最弱の勇者”で、どうするのです! 地球の皆を救うため、悪魔に魂を捧げたらいかがです? それができる者こそ、真の勇者なのです」  悪魔に説教された勇者だが、彼はそれを恥ずかしいとは思わなかった。そんなことを考えるより、もっと大事なことがあったのだ。 「悪魔に与える魂だが、それは自分のものじゃなくても構わないかな?」  無言で頷いた悪魔の娘に、勇者は言った。 「僕には不出来な弟がいる。勇者の弟のくせに、何の役にも立たない無能だ。あいつの魂を悪魔に捧げたい。それでどうだい?」  悪魔の娘はスマホで何処かに問い合わせた。 「弟さんは、もう悪魔に魂を譲り渡していますから、それは無理です」 「それじゃ……」 「“反転”の呪いを解除する儀式をやるためには、あなた自身の魂を捧げるしかないです」  返答に困った勇者に情熱的なキスを浴びせてから、白百合のような悪魔の娘は言った。 「魂を失ったとしても後悔しないくらい素敵な思い出を作って差し上げます。私は死ぬ前から、そういうのが大得意ですから」 ・母星を追われた宇宙最弱の種族は、遠く辿り着いた星で自分たちより弱い“人間”という生物に出会い――?  侵略予定の星の先住民である“人間”が弱い弱いと言っても、そこは宇宙最弱の種族である。もしも返り討ちに遭ったら、どうしよ! という不安があった。そこで彼らは、宇宙に普遍的に存在する悪魔の力を借りることを思い立った。地球征服作戦実施に当たり、最大の障壁になるであろう歴代最強の誉れ高き勇者に“反転”の呪いを仕掛けたのだ。そのために、少なからぬ魂が地獄へ落ちることになってしまったが、戦いとはそういうものだと考え彼らは犠牲を受け入れた。地獄に落ちる覚悟がなければ、天国へは行けないのだ。  歴代最強の誉れ高き勇者が“反転”の呪いを受けたことで、“最弱の勇者”となってしまっていることをミツバチに擬態した偵察機が確認した後、遂に侵略部隊が出撃した。シークィムミゲイルの丘の地下納骨所で美しい悪魔との“反転”の呪いを解除する儀式に夢中になっている勇者は、敵襲に全く気が付いていなかった。  危うし、地球!  そのときである。  勇者の不出来な弟つまり例の少年が、美しい女悪魔とナニをやっていて迎撃に出てこない役立たずの兄に代わり、勇者となって敵に立ち向かった。彼は宇宙最弱の種族を破り、地球の危機を救った。  あの日、少年は自らの魂を悪魔に捧げることで、勇者の力を手に入れたのだった。兄を呪うのではなく、自分の魂を犠牲にして、兄のような勇者になることを彼は選んだのだった。
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