第十章 エピローグ

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 あれは予知夢だったのだろうか。父の仕事について訪れた遠く離れた街で、司は鶫に再会した。  ごった返す人波。目まぐるしい雑踏。排ガスを撒き散らす自動車。行き交うタクシー。バス停の行列。低俗な広告を垂れ流す電子掲示板。うんざりする都会の喧騒のど真ん中に、まるで一本の大樹のような凛とした佇まいで、鶫は一人立っていた。   「よぉ」    軽い調子で鶫は言った。司は一歩も動けなかった。   「何ぼさっとしてんだ。俺を殺しに来たんだろ?」 「なっ……」 「なんだ、ちげぇのか」    鶫は気の抜けたような顔をした。   「別に、殺したいならいいんだぜ? ま、簡単に殺されてやるつもりもねぇけどな」    鶫は挑発するように笑った。司が夢で見たのとは別人のような、凶悪な笑顔。   「……殺したいわけ、あらへんやん」 「そうかよ」 「あの日から、ウチはてんやわんやや。鶫くんに何人殺されたと思う? 烏兎なんて、ほぼ壊滅状態やで。せやけど、誰も鶫くんが犯人やとは思うてへん。鶫くんにあないな芸当ができるなんて、毛ほども思うてへんのや。ぼく――オレも、誰にも何にも言うてへん。鶫くんは、ずっと死んでることになってんねん」 「……んで、復讐に来たんじゃねぇのかよ? わざわざこんなむさくるしいところまで」 「そないなわけあらへんやん。ぼ――オレはただ、親父の仕事についてきただけやし。今な、鶫くんのせいで梔子家の立場が危ういねん。他の家ともうまくいってへんし、当主様は色々と大変なんやって」 「……そりゃあ、悪かったな」    鶫は淡々と呟いた。   「……んじゃ、用がねぇなら俺ぁ帰るわ。早とちりしちまって悪かったな。お前もとっととパパんとこ帰れよ」 「っま、待ってぇや!」    踵を返し、雑踏に消えていこうとする鶫を、司は大声で呼び止めた。   「も、戻ってくる気はあらへんの?」 「……」 「ぼく、きっとええ当主になるで! 鶫くんのこと、いっぱいいっぱい大切にする! 家のやつらにも言うこと聞かせる! せやから……」 「……」 「もう、ぼくだけのもんになれなんて、無茶言わへんから……! ただ、そばにおってほしいねん……」 「……今も昔も、あそこは俺の帰る場所じゃねぇ」    司に背を向けたまま、鶫は冷たく言い放った。   「そろそろ分かれよ、お前も。いくつだよ」 「……年齢関係あらへんやん」 「俺は、ずっと外へ出たかったんだよ」 「……」 「せっかく離れられたのに、またあの地獄へ引き戻そうなんて、そんなひでぇことをお前は俺にするつもりか?」 「それは……」    鶫は颯爽と振り返り、微かに唇を歪めた。司が初めて目にする、鶫の穏やかな微笑だった。   「じゃあな」    永遠に、と聞こえた気がした。   「っ、ま、待って……」    鶫の影が雑踏に消えていく。追いかけたくて、けれど、足が釘付けになったように動かなかった。   「おい、どこ行ってたんだよ」    髭面の中年の男が、心配そうに鶫に駆け寄った。馴れ馴れしく肩に手を置くが、鶫はそれを払い除けることもなく、穏やかな表情で応える。   「別に。昔の知り合いに会ってただけだ」 「昔? って、どんくらい昔だよ」 「昔は昔だ。用は済んだから、とっとと帰っぞ。今夜は焼肉だろ」 「まだ夕飯には早ぇけどな」 「酒も空けようぜ。なんかいいやつもらってたろ」 「ああ、あれな。高級品なんだから、大事に飲めよ」 「わーってるよ。あんたこそ飲み過ぎんなよ」 「どういう意味だよそれは」 「そのまんまの意味だろ」    中年の男と連れ立って、鶫は雑踏に消えていく。大都会の喧騒に紛れ、鶫の声はもう拾えない。  鶫は、本当はあんなにも美しく笑うのか。あんなにも溌溂と喋るのか。あんなにも朗らかに、穏やかに、人と接することができたのか。司の知らない鶫の姿を、あの男はいとも容易く引き出した。  とても長い間、それこそ、人生の半分を占めるほどの長い年月、同じ屋敷で共に暮らしていたはずなのに、司は鶫のことを何一つ知らないままだ。  梔子家にいる限り、司と共にある限り、鶫は二度と笑えないだろう。司は二度と、鶫のあの美しい笑顔を見ることは叶わない。鶫は、梔子でも司でもない、他に帰るべき場所を見つけたのだ。そのことを理解して、司は深々と歎息した。   「……最後に、愛してるって言うてもらえばよかった」    別れの言葉に、愛を告げてもらえばよかった。たとえ嘘だと分かっていても。
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