第九章 幸福の在り処

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第九章 幸福の在り処

 一雫の光すらない、究極の闇。そんな空間に、鶫はたった一人きり。   「っ……!」    何かが足首に触れた。蟲か、獣か、もっとおぞましい何か。   「っ……やだっ……」    その正体を、鶫は知っている。見たことはないが知っている。どんなに走って逃げようとも、いつも部屋の隅まで追い詰められて、見えない何かに襲われる。   「うっ……あっ……!」    何かが足首に巻き付いた。鶫は転んで頭をぶつ。しかし痛みに泣いている暇などない。早く逃げなければ、もっともっと恐ろしい目に遭う。   「いっ……!」    鋭い鈎状のものが、鶫の柔い肌を無残に切り裂く。痛い。怖い。助けて。しかし誰も来ないと分かっている。鶫は世界を呪う。そうした負の感情が高まるほどに、鶫を襲う化け物は喜び力を増す。   「ひっ……」    体中を不気味なものが這いずっている。得体の知れない醜悪な何かが蠢いている。蟲か、獣か、あるいはもっと化け物じみた“なにか”。目には見えない“それ”に、幼い体はいとも容易く蹂躙される。   「やっ……」    手足を拘束されて動けない。何か大きなものに圧し掛かられる。小さい体に支えられる重量ではない。鶫は抗う術もなく押し潰される。できることといったら、微かに消えゆく呻き声を上げることだけ。   「いたい……ぃ、やだ、ぁ……だれか……っ」    瞬きをすると、そこは薄明かりの部屋だった。四隅に燭台や行灯が揺れている。   「い゛っ……!」    体を内側から切り刻まれる、明確な痛みが走った。ふと気付くと、鶫の上に知らない男が乗っている。  知らない、いや、知っているかもしれない。頭髪は薄く皺だらけのくせに、頬の辺りだけがいやにふくよかな老人なんて、腐るほど見てきたからいちいち覚えていられない。   「おや、泣いているのかい? かわいいね」    老人の生温かい舌が頬を舐る。ぞっと背筋が凍って、鶫は老人を蹴飛ばした。  途端に頬を張られる。目の前にいるのは、老人ではない。父親だった。   「歯向かうな! この出来損ないめが! 少しは役に立とうと思わんのか!」 「っ、ごめ、なさ……」 「あなたなんかこんなことでしか役に立たないんだから! 使ってもらえてるだけ感謝なさい!」    母の姿が現れる。影が陽炎のように揺らめいて、母なのか、父なのか、老人なのかさえ曖昧だ。ふと周りを見れば、たくさんの大人達が下賤な眼差しで鶫を見下ろしている。   「さぁ股を開いて」「腰を振れ」「駄犬が」「浅ましい雌犬め」「犯されて悦びやがって」「この程度で音を上げるな」「誰のおかげで生きていられると思ってる」「貴様の命に価値はない」「他に使い道がない」「オマエなんかいつでも簡単に殺せるんだぞ」    この世全ての悪意を詰め込んだ言葉の数々が降り注ぐ。目を塞いでも、耳を塞いでも、逃れようがない。   「大人しくしとけよ。優しくしてやるから」    乱暴な男の手が次々と伸びてきて、まだ脆くか弱い鶫の四肢を押さえ付ける。未発達の、本来そんなことに使うべきではない体を、男の欲望を満たす道具として扱われる。男の劣情を、幼い鶫はまだ受け止められない。   「いたい、いたいっ! ……いやっ、やめてっ……!」 「静かにしろ。抵抗したらこうだ」    殴られれば痛い。内臓を切り裂かれれば痛い。誰も鶫の悲鳴を聞いてはいない。誰も鶫を見ていない。誰の目にも映らない。霊よりも透明な存在。いないも同然だ。いないも同然なのに、痛みは感じる。   「おねがい……だれか……」    誰もいないと分かっている。だから全てを諦めた。もっと早くにその決心がついていれば、もう少し楽だったのかも分からない。
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