第九章 幸福の在り処

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「おい」    はっと気付くと、薄暗く静かな部屋にいた。風間が濡れたタオルで鶫の額を拭っていた。   「…………なんだ、おっさんか」 「なんだとは何だよ。大丈夫か?」 「……何が」 「……いや、何でもねぇ。喉渇かないか」 「……少し」 「何がいい」 「……何でも」 「ホットかアイスか」 「……あったかくてあめぇやつ」    待ってろよ、と言って風間は寝室を出た。キッチンで物音がするので、鶫も覗きに行った。風間が電子レンジでミルクを温めていた。   「ガキかよ」 「あったかくてあめぇだろ?」 「俺が言いたかったのは、ホットカクテルとかそーいうのなんだけど?」 「んな洒落たもんがうちにあると思うか?」 「ブランデーくらいなかったか?」 「お前、普段から酒なんか飲まねぇだろ。子供舌なんだから」    揃いのマグカップが並べられる。白い湯気がふわふわと舞う。大きめのスプーンに蜂蜜をたっぷり注いで、ミルクに溶かす。カチャカチャと食器のぶつかる軽快な音が、深夜のキッチンに響く。   「ほら、ゆっくり飲めよ」    鶫はマグカップを掌に包む。いつの間にか冷えていた指先がじんわりと解けていく。仄かに甘い香りが漂う。一口飲めば、体の芯からほっと温まった。   「うめぇ」 「こんなに簡単なのにな」 「あんたも飲むのかよ」    風間は、唇に付いたミルクを舐めて笑った。   「同じもん二つ作る方が楽だからな」 「あんたこそ、にげぇブランデーを寝酒にする方が似合ってんだろ」 「単純に、お前と同じもんがよかったんだよ。ずっと一緒に暮らしてると、嗜好も似てくるのかもな」 「は、あんたも子供舌ってことじゃねーか。おっさんのくせに」    憎まれ口を叩きながらも、自然と頬が緩んでしまう。鶫の顔を見て、風間も頬を緩ませた。   「眠れそうか?」 「……さぁな」 「そこは寝れるって言っとけよ。この他に寝かし付けの方法知らねぇんだけど」 「んなことされなくたって、いつか勝手に寝るさ。あんた時々……」    父親みたいなことをするよな、と言いかけて、鶫は口を閉じた。世の父親はこういったことを子供にしてくれるものなのだろうか。世間の父親像を、鶫はまるで知らない。  それに、風間は父親にしては歳が近すぎる。どちらかといえば、歳の離れた兄だろうか。世間でいうところの兄貴ってやつも、弟にこういったことをしてくれるものなのだろうか。   「何だよ? 急に黙って」 「いや……母ちゃんみたいなことするよな」 「おま、おっさんにそれを言うか?」 「ばあちゃんよかいいだろ」 「んな歳じゃねぇわ!」    世間でいうところの母親がどういったものか、祖母がどういったものであるのか、鶫はまるで知らない。知らないが、知らないなりに、それらの理想像を風間に見た。   「お前こそ、いつまでもガキみてぇなことばっかり」 「かわいーだろ? 甘やかしてくれよ」 「何がかわいーだよ。自分で言うな」  真夜中の薄暗いキッチンで、秘めやかな談笑は続く。
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