第九章 幸福の在り処

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「満足したかよ」    一服しながら風間が言う。紫煙がベッドルームを燻っている。   「まぁな」 「眠れそうか?」 「う~ん」    カーテンの向こうは僅かに白んでいる。ぐう、と鶫の腹の虫が鳴いた。風間はまさかという顔をする。   「寝れねぇわ」 「欲望に忠実だな、お前の体は」 「なぁ~、なんかメシ」 「今からじゃラーメン屋も開いてねぇよ」 「そーいうんじゃねぇんだよなぁ。ちょい早ぇけど、朝飯にしよーぜ」 「朝飯ったってなぁ……何がいい」    風間は渋い顔をしながら、結局は鶫の要望を聞いてくれる。   「サンドイッチ。卵のやつ」 「はぁ~? まぁためんどくせぇ注文しやがって」 「いいじゃねぇか、片付けは手伝うし。んで、昼までだらだらしよーぜ」 「調子のいいやつ」    無精髭を生やした、薄い唇に煙草を銜えて、風間はキッチンに立った。早朝、静かなアパートの一室に、食器のぶつかる音が響く。  これが幸福というものか。鶫は、甘い余韻の残る体を横たえた。  何も、セックスだけが幸せの形ではない。誰かが自分のために料理を作ってくれる。マヨネーズで和えた卵をふわふわの食パンで挟んだサンドイッチも、甘いカフェオレも、苦い煙草も、微かに聞こえる鼻歌や、静かな足音でさえ、全てが幸福の証に思えた。  カーテンを開ければ、眩い朝焼けが東の空を満たしている。清浄な朝日が闇をすっかり洗い流して、新しい世界を新しい色で染めている。世界はこんなにも明るく、暖かく、美しかったのだと、鶫は改めて思い知る。   「おっさぁん、まだかよ」    待ちきれなくなって、鶫はキッチンへ駆けていた。風間は換気扇の下で煙草を吹かし、卵の茹で上がるのを待っていた。   「気が早ぇな。せっかく来たなら殻剥き手伝え」 「うぇ~、めんどくせぇよ」 「やればできるくせに、物ぐさすんな」    二人の新しい今日が、今ここから始まる。
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