声が消えた世界

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 三日後。  僕たちは、お互いが出会った海辺で待ち合わせをすることにした。浜辺に降りると靴が砂だらけになってしまうので、面した路の上での再会だ。周囲にはこれといって目印になるようなものもないので、すれ違ってしまわないように移動の途中でコールをして、会話をしながら待ち合わせ場所までやって来た。  先に着いた僕は、平然とした様子を装いながら海を眺めていた。自分で自分を騙そうとしていないと、僕の中身が今すぐにでも飛び出してしまいそうなほどに緊張している。 「お待たせしました」  数分後に現れた真紀さんは、小声でそう言った。他の人には聞かれないように僕にだけそっと、その声を聞かせてくれた。 『すごいですね。声量、ですか。咄嗟に小さくすることが出来るものなんですね』  フレンド登録してあるので、僕の言葉は彼女にしか届かない。もし登録していない状態で言葉を飛ばせば、意識的に彼女の方へ向くことで周囲にあまり広がらないようになるけれど、それでも少なからず近くの誰かには届いてしまう。迂闊に声の話も、出来なかったところだ。  真紀さんは、にこりと笑って僕の側に歩み寄ってくる。香水だろうか、彼女が側に来ると、華やかな香りが僕の鼻腔を優しく刺激した。そして――彼女は僕の耳元で声を発した。 「簡単ですよ。ほら、さっきよりも小さいでしょう?」  囁く、というやつか。とても小さい声、といったイメージだったが、これはどうも恐ろしいもののようだ。小さいのに、衝撃はかなり大きい。もしかして、声とは、近距離で聞いてはいけないものだったのか!? 身体がよろめいて、上手く立っていられない。ここが屋内ならば、床にへたり込んでしまいたいほどだ。 「大丈夫ですか?」 『だ、大丈夫、です。たぶん』  過去の資料の中には、声を近距離で聞くことの危険性を記したものはどこにもなかった。もしも何かしらの毒性があるのだとしたら、それこそ特筆すべき特性だろう。記していない、ということは、ない、ということのはずだ。 『声に感動しただけだと思いますから、なんともありませんよ。それより、さっそく移動しましょう。夜とは違って昼間ですから、人通りもありますし。声を小さくするのも簡単とはいえ、疲れるでしょう?』 「そうですね。確かに、小声では喋りづらいですし。行先は、お任せしてもいいんですよね?」 『も、もちろんです』  デートでは、男性が女性をエスコートするものらしい。調べてみたら、そう書いてあった。だから、僕は彼女をどこかに連れて行ってあげなくてはならないようだ。まあ、声を聞かせてもらえる代償と考えれば、苦でもなんでもないのだけれど…………けれど。 『今から電車に乗って、都内へ向かいます。十三時半に向こうへ着きますので、そこから昼食を摂り、十四時二十分より水族館へ。十五時三十五分に水族館を出て、次は博物館へ向かいます。十六時頃には着くでしょう。博物館には四十分ほど滞在して、そして次は――』 「も、ものすごく忙しないですね……」 『やっぱり、駄目でしたよね』  プランを考えている内に、僕もこれはないな、とは思っていた。もしも僕が真紀さんの立場だったとしても、拒否している。でも、デート初体験の僕には、走り出してから後戻りする余裕なんて、なかったのだ。 「うーん。和幸さんが嫌でなければ、なんですが。逆に行ってみる、なんてのはどうですか?」 『逆、ですか?』 「ええ。都内ではなく、街はずれ。人工物に囲まれた場所ではなくて、自然に囲まれた場所。そっちの方が、私も気兼ねなく声を出せますし」  そうか。エスコートをすることに躍起になってしまっていたけれど、都内に行けば当然、人口の数は増加する。そうなれば、真紀さんはもっと声を出し辛くなってしまうではないか。声を聞きたいから彼女とこうして会っているのに、これでは本末転倒だ。デートという単語に、惑わされてしまっていた。 『いいですね。でも、そこに行って何をするんです?』 「さあ? とりあえず、行ってみてからでいいんじゃないですか? きっと、何か見つかりますよ。私たちが出会ったみたいに」  彼女の提案に賛同して、僕たちは二人横並びで歩きながら駅へと向かった。  駅に向かうまでは小声で語りかけてくれていた真紀さんだったけれど、駅には大勢の人がいて、さすがに声を出せるような環境ではなくなった。残念ではあるけれど、一時だけ声を封印して、現代の会話方法へと戻った。 『真紀さん、あっちの電車に乗ればいいみたいです』  僕は彼女を誘導して、目的地へと向かう電車が停まっている場所まで移動した。専用の機械にお互い掌をかざして、個人認証が終わると箱型のエレベーターに乗り込んで、自動で上空の電車内へと移動していく。上空とはいっても、電車は自動車が走る位置よりも少し低い位置を走っている。二つがぶつからないようにとの位置取りらしい。 『真紀さんは、街はずれに向かうことが多いんですか?』 『そうでもないです。というか、あまり家から出ることすらないですね。咄嗟に声が出たりしたら、困るので』 『確か、びっくりした時とかに自然と声が出るみたいな、そんな事例が記録されていたように思うんですけれど』 『その通りですよ。驚く以外にも、自分の予想外のタイミングで突発的に声が出たりすることもあります。それこそ、笑った時とか』 『なるほど』  任意ではなく声を発してしまうのであれば、うかつに外を出歩くことも難しいか。誰かに聞かれたら、どんな反応をされるか分かったもんじゃない。稀有な存在としてSNS上で晒しものにされるか、不気味がられて無益な攻撃を受けるか。おそらく、好意的な反応をするのは、僕のような変人ぐらいだろう。 『本当は、和幸さんに声を聞かれた時、心臓が止まりそうなぐらいに怯えていたんです。もしかしたら、化け物だと罵られるのではないか、とか、おぞましいものを見たかのようにその場から走り去ってしまうのではないか、とか』 『僕が声を大好きな変態でよかったですね』 『本当に。和幸さんの変態性に救われました』 『……変態、は否定してほしかったんですけど』  真紀さんは、声を出さずに表情だけ笑顔にした。口からリズミカルに息だけが漏れて、僕たちと変わりない笑い方をみせる。声帯を持つ彼女からしたらこの笑い方は、自然ではないのだろう。きっと、意識しなければ声も一緒に漏れ出してしまうはずだ。  だからなんとなく。どこか、作り笑いのようにも思えた。  ほどなくして、電車は止まった。電車から降りて専用の機械に手をかざす。自動で料金が口座から引かれたのを確認して、僕たちは駅構内から外へと出た。  その場所は、家屋以外の建物はほとんど見えない緑に囲まれた場所だった。道の脇には多種多様な形の草が生えていて、少し先には幾つもの水田が見える。空を見上げると、車もあまり走ってはいないようで、鳥たちが不自由なく悠々自適に空中遊泳を楽しんている。  電車で一時間もかからずに来れた場所であるのに、まるで別世界に来たようだ。 『すごいですね。さっきまで機械だらけだった世界が、一変したみたいです』 「ええ、本当に。でも、今更ですけどごめんなさい。和幸さんがせっかく考えてくれたプランを、台無しにしてしまって」 『気にすることないですよ。そもそも、無くなる土台もなかったですから』  彼女はまた笑った。電車内とは違って人気がなくなったため、今度は息と一緒に声も漏らした。遠慮なく発せられた笑い声は、風に乗って飛んで行ってはいるけれど、僕以外の誰かの耳に届いた頃にはきっと、声の原型を失っていることだろう。  この声が聞けるのは、彼女の横に立っていることを許された、僕だけの特権だ。 『とりあえず、歩いてみましょうか。お腹も空いてきましたし、どこか良さそうなお店があれば、入ってみましょう』 「いいですね、行き当たりばったり。私、そういうの好きですよ」 『僕はどちらかというと計画性重視の人間ですけれど、真紀さんと出会ってからは、ノープランも楽しいのものだなと、感じています』 「それは、褒められている、ってことでいいんですか?」  今度は、僕が笑ってみせた。彼女は「むう、むう」と、呻き声、と呼ばれるものを発しながら、僕の背中をばしばしと叩いた。痛くはあるけれど、それよりも嬉しさと幸福感の方が勝っていた。声には、可愛いという側面もあるようだ。  少しばかり歩いて、水田が多く展開されている区域に着いた。天に向かって伸びている緑濃い稲が、辺り一面に広がっている。 『声について調べている時に知ったんですが、田んぼの始まりは、石器時代だそうです。約三万年前から形を変えつつも、まだ現在にもこうして残っているところを見ると、途方もないものを感じますよね』 「確かに、神秘的にすら思えます。でも、人の世はもっと前から始まっていますし、そう考えれば私たちも、途方もないもの、かもしれませんね」  僕は、周囲を見渡した。  この景色も、昔とは随分様変わりしているのだろうけれど、それも全部人の手によってである。人が誕生して、人が作って、そして人が無駄なものを省き効率を追求した結果だ。  もし、昔の人が今のこの景色を見ると、どう思うのだろうか。予め動作を設定された機械が、人力なしに自動で動き、約一年を経て稲を生成し米を作っていく。農家の人間がすることといえば、機械の点検ぐらいだ。  人も、昔と比べれば変わっている。生物における進化と呼ぶべき類のものが、人の世においても何度も行われてきた。  自然に対応し生き残っていくために、生物は己の身体すらも変化させていく。必要不可欠な変化だった。  けれど、どうだろう。彼女に視線を移して、思う。人が声帯を失う必要性は、どこにあったのだろう、と。  生きる上で不必要だと判断された、声。無駄を省いた結果、僕たちは声を発することが出来なくなった。でもそれは、彼女の声を聞けば聞くほど、疑問が生じてくる。本当に、声は無駄なものだったのか。  人の生命を維持するには必要なくなったのかもしれないけれど、心の維持には、声の重要性は高いはずだ。だって今の僕は、こんなにも満たされているのだから。        
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