声が消えた世界

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 森の洞窟を訪れた後、僕たちは緑の空間に癒されながら様々な植物や生物を眺めた。二人とも特に詳しいわけではなかったので、綺麗な色だとか、不思議な形だとか、子供の感想を交わしながら楽しんだ。うんちくの一つでも言えれば格好良かったのかもしれないけれど、知らないからこそ楽しめる、ということもあるだろう。  十分に堪能した後、夜は何を食べようか、と僕の方から切り出した。けれど、振り絞った僕の勇気は成果を得られぬまま雲散霧消した。 「ごめん! 言い忘れてた。お母さんに、夜ご飯までには帰るように言われてて――」  言い訳かと、最初は思った。でも、真紀さんの方から「今度会った時に埋め合わせをする」という提案があったので、まんざら嘘でもないように思えた。  大人の女性に対して設定される門限にしては早すぎるようだけれど、きっと、真紀さんの両親が娘を心配してのことだろう。真紀さんはあまり外に出ないとも言っていたし、友人もいないと言っていた。僕と似た環境だからこそ、分かる。僕の両親だって、突然僕が、友達と遊んでくる、と言って外出したら嬉しい反面、心配もするだろう。息子ではなく娘なら、なおさらだ。大事な娘を、得体の知れない誰かと夜まで一緒にいさせたくはないのは、普通の親なら当然の感情だ。  残念ではあるけれど、無理強いは良くない。彼女の声もたくさん聞けたことだし、今日のところはこのまま帰って別れることにしよう。声を過剰摂取し過ぎて、心がもたなくなってしまってもいけないし。 「今度は私がタクシーを呼ぶね」 『うん、分かった――あ』 「――え?」  僕は上空を見上げた。つられて、彼女も見上げる。上空とは言ってみたが、僕たちの視界は大部分が緑色だった。青も白も、微かにしか見えない。 『木々に覆われてるから、タクシー入って来れないんじゃないかな』 「そうかも。え、じゃあ、来た道を歩いて戻らないと行けないの? 結構、歩いたよ?」 『インドアの僕たちには、中々ハードだね』  ほら、やっぱり。一時のテンションに身を任せると、身を亡ぼすんだ。冷静になってみると、もう既に足は痛くなっている。動けないほどではないけれど、明日は絶対に筋肉痛だろうな。  僕と真紀さんは、顔を見合わせた。いい大人が二人揃って、後先も考えずに子供みたいにはしゃぎまわったものだ。なんだかおかしくなって、僕たちは一緒に笑った。僕は笑顔で口から息を漏らしながら、真紀さんは笑顔で口から声を発しながら。  無邪気に笑う真紀さんを見て、思った。僕は彼女の声を聞きたいがために彼女と一緒にいたのだけれど、もしかしたら、それだけではなかったのかもしれない。もし、彼女が僕たちと同じように声帯を持っていなかったとしたら。彼女が、僕たちと同じように声を発することが出来なかったとしたら。  それでも。僕は真紀さんと、一緒にいたい、とそう思っている。                 *  真紀さんを見送り終わった頃には、すっかり陽が落ちてしまっていた。真っすぐ帰ってくれば陽がまだある内に帰れたはずなのだけれど、なんだかんだと、駅近くのお店に寄ったりしてしまって、時間が一瞬の内に過ぎ去ってしまった。  遅くなったことを僕も謝りに行こうかと思ったが、それは逆効果のような気もして、止めておいた。真紀さんが「大丈夫!」と自信満々に言っていたので、彼女を信じることにしよう。  その夜。  真紀さんからコールがあり、どうやら彼女は泣いているらしかった。両親と喧嘩をしたのが原因で、その要因の大部分は当然ながら僕だ。  僕は彼女に謝ったけれど、真紀さんは『和幸さんは何も悪くはない』と言った。そして、自分が悪いのだと言ったので、僕は真紀さんも悪くはないし、真紀さんの両親も悪くはない、と言った。    でも真紀さんは、自分が悪かったのだ、と一点張りだった。  状況を知らないので憶測でしかないけれど、彼女は僕が思っているよりも強く、両親に叱られたのかもしれない。  何か、彼女を慰めてあげられる言葉はないだろうか。脳内を巡ってみても、いまいち出てこない。チップなんて人工物をわざわざ埋め込むぐらいなら、せめてこういう時にすぐ言葉が浮かんでくるように作っておけばいいものを。利便性以外にも、人を救えるものはあるはずだろう。  チップ内検索で、ありきたりな言葉を探そうか? 何も言わないよりも、彼女を元気づけられるかもしれない。僕の言葉ではなく、誰かが無感情のままで記した言葉を、彼女に伝えることで少しは気持ちを軽く――出来ると、本当に思っているのか?  真紀さんがそれを望んでいると、僕は本気でそう思っているのか? 彼女が泣きながら僕にコールをしてきたのは、僕以外に話せる相手がいなかったから? 僕だけが、事情を知っていたから?  それはきっと、事実だろう。でも、そこに【彼だから】という感情が、どこかにあったのだとしたら。彼女も気付いていない部分で、【彼じゃなきゃ】という想いがあったのだとしたら。  気が利いていなくても。空気を読めていなくても。的外れだったしても。  僕は僕の心で、彼女に向き合わなければいけないじゃないか。 『真紀さん、仮に君が悪いとして、でもやっぱり全部君が悪いわけじゃないよ。責を負いたいんだったら、僕にも半分分けてくれないかな。二人で半分個ずつ。僕たちは共犯だ。だから、君だけが苦しんで泣く必要はないよ』 『…………違うの。約束を破って反省はしてるけど、私が泣いているのは、親にもう貴方と会うなって、言われたから。だから――』  真紀さんの言葉、チップを介して脳内に響いていく。抑揚もなく高低差もない。ただ波打たず真っすぐと平坦に、流れて行く言の葉。  でも僕にはしっかりと。彼女の怯え震える声が、聞こえた。 『今度会った時は、二人で謝罪しないと、だね。何度も両親との約束を破ることになってしまいそうだけれど、仕方ない。だって僕は、君に会いたいんだから』 『……私も……会いたい』  真紀さんは、徐々に落ち着きを取り戻していったようだった。こちらから彼女の様子を視認することが出来ないので、泣き止んでいるかどうかは判然とはしないけれど、彼女の会話の中にくだらない話が増えてきたところを見ると、大丈夫のようだ。  僕たちはその後も会話を続け、気付けば通信を繋いだまま、僕たちは眠ってしまっていた。翌日の朝、気まずさを覚えたのは彼女も同様のようで、ぎこちない挨拶を交わしてから通信を切った。  その日から僕たちは、毎晩話をした。  本当は会って声を聞きたいのだけれど、両親のこともあるし、そもそも真紀さんは事務員として働いているので、平日に会うことは難しかった。僕のような、親のすねをかじってやりたいことだけをやっている人間とは違って、懸命に社会に貢献しているのである。  毎週土日のどちらかで、僕たちは会うことにした。お互いに、二日とも会いたいという意思はあったけれど、真紀さんの両親のことを慮って片方だけにすることにした。月日が経てばきっと、認めてもらえる日が来るはずだと、信じて。  会った日は、都内で買い物をしたりした後にどこかこじゃれたお店で昼食を摂って、その後、日が沈みかけるまで人の少ない場所で散歩をした。わざわざ毎回、人気のないところで散歩をする時間を確保しているのは、声を聞きたい、という僕の願望を叶えるためだ。  まあ、大人の男女であれば、外ではなく屋内で二人だけになれる特定の場所があるにはあるだろうけれど、そこに彼女を誘う勇気など、僕にはない。四回目に会った時ぐらいに何時ものように真紀さんを散歩に誘うと、彼女に足を蹴られた記憶があるが、気にはしない。  僕たちは親交を深めていって、あっという間に一月が経った。  呼び名からも【さん】がなくなり、僕は真紀、そして真紀は和君と呼ぶようになっていた。  夜。僕は、最早日課である真紀からのコールを待っていた。一月が経過しても、未だに会話をする前は少し緊張する。僕は、気を紛らわすためにパソコンを操作していた。  しかし。  何時もの時間が過ぎても、彼女からコールがあることはなかった。不思議に思って、僕は自分の方から真紀に向けてコールをした。何度も何度も。けれど、彼女がコールに応えることはなかった。  心配になった僕は、彼女の家まで行こうとしたけれど、そういえば明確な住所を知らなかった。僕たちが出会ったあの海の付近だということは知っているけれど、付近、だけで探し当てるのは至難の業だ。  どうすればいい。  彼女の安否を確かめるための方法を模索している中、ふとパソコンの画面に目がいった。僕がさっきまで、無駄に眺めていた動画サイトのTOP画面。そこに映し出された幾つかのサムネに、信じられないものが映っていた。 『……真紀』  それは、初めて僕たちが遠出をした日の一場面だった。木造のベンチに腰かけて弁当を食している、あの場面。  動画のタイトルは【現世に甦った、衝撃の《声》】。  僕は、おそるおそるその動画を開いた。  動画時間は約五分。真紀の横にいた僕の姿は、動画内にはなかった。ただ五分間、真紀が自分の声で喋っている姿が、映し出されていた。モザイクなく、この人物が甘静真紀であるとはっきり分かるように、彼女の顔、肢体がしっかりと映っている。  僕は立てなくなって、思わずその場に座り込んだ。  動画がUPされたのは、二時間前。視聴回数は既に一千万回を超え、コメントも、二千件を超えていた。  つまりこの動画は、既に全世界に知れ渡っている可能性が高い。  なんでだ。なんで、こんなことになった。  分かっている。分かっているさ。僕が声を聞きたいばかりに、真紀に声を出しているようにお願いしたからだ。  真紀自身、自分の声が誰かに知られるのを怖がっていた。不気味だと思われるかもしれない、見世物にされるかもしれない。目立ちたがりの人間ならそれを良しとすることもあるのかもしれないが、彼女は違う。真紀は、平穏な生活をただ送りたいだけだったんだ。  他の人とは違う身体を持っているからといって、騒がれることなく生活を送りたいと思うことは間違っているのか。  そんなはずはない。  でも、それでも。人は、稀有な存在を見つけると面白半分に騒ぎ立てる。真紀はそれを十分に分かっていた。  そう。僕と出会うまでは。  人に隠れて声を出していた真紀。けれど、僕と一緒にいる時は、周囲への警戒が一人の時より疎かになっていた。だからと言って、それについて彼女を責めることなど出来やしない。  興味本位で、近づいて。彼女の生活を壊し、乱した。  結果的にはこの動画が拡散されたことによりそうなってしまったのだろうけれど、思えばそうだ。  一番最初に彼女に興味本位で近づいたのは――僕じゃないか。                
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