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ようやく身体の動きを取り戻した僕は、慌てて家を飛び出してタクシーを呼び出した。数分でやって来たタクシーに乗り込んで、目的地を設定しようしたけれど、そこで動きが止まってしまった。
僕には、彼女に会う資格があるのだろうか。
僕が真紀と出会いさえしなければ、真紀は隠れて動画を撮られることもなかった。一人の時のように、静かな夜の海で声を発して、変わらない毎日が送れていたはずだ。
考えれば考えるほど、怖くなった。
僕のエゴが、一人の女性の人生を破壊しようとしている。僕の人生の中で一番大切だと思えた人の世界を、真っ暗にしようとしている。
頭が痛くなった。僕は、どうすればいいのだ。
目的地を設定することなく後部座席で頭を抱えながら、ふと横に視線を移した。一月前、【森の洞窟】に行くために二人肩を並べて座ったことを思い出す。
真紀の笑った顔が、そこにはっきりと見えた。
僕は、馬鹿だ。
すぐに目的地を設定して、前を向いた。
真紀に嫌われても仕方ない。どんな罵詈雑言を浴びせられても、甘んじて受け入れよう。
僕は、彼女に伝えなければならない。声を発することが出来ない僕だけれど、それでもこの想いを伝える方法はあるはずなのだから。
ほどなくして、僕たちが出会ったあの海の前に辿り着いた。タクシーを降りて、僕は目を丸くした。そこには、自然の海と同化するように、人の海が出来上がっていた。
道にも浜辺にも、見渡す限りの人。一つの場所へと向かって群がるそれは、とてもおぞましく見えた。
野次馬の一般人、報道関係者、様々な種類の人たちが、一人の女性を標的にしてこの場にやって来ている。人という種族が自ら切り取ったものを、求めてやって来ているのだ。
今すぐこの場から離れてくれと、そう思うけれど、僕もこの人たちと変わりはない。もし、僕が真紀と出会っていない世界線で、彼女の【声】について知ったら、目の前に広がる有象無象の中に入り込んでいるのは間違いない。失ったものを取り戻すかのように、懇願し渇望していたことだろう。
人を押しのけて前に進んで行けば、おそらく真紀の家に辿り着く。かなり体力は消耗してしまうだろうし、下手をすれば払いのけられて怪我をする恐れもある。でも、そんなものは外傷にすぎない。心の傷に比べれば、擦り傷みたいなものだ。
いざ、人の海へ。と、意気込んだところで思った。真紀の家まで辿り着いたとして、そこからどうする? コールは応答してくれないし、家のインターホンを鳴らして顔を出してくれるはずもない。僕が側にいることを彼女に伝える術が、何もない。
声を出すことが出来れば。そうすれば、大声を出して無理矢理にでも真紀の耳に僕の声を届けることが出来るのに。人によって音の違う声は、名乗らずともお互いを繋げてくれる。真紀の声と僕の声が混ざり合えば、二人だけの世界を作ってくれるだろう。
でも、僕は声を出すことが出来ない。どれだけ真紀の真似をしてみても、掠れた息しか出てこないのだ。
どうして、彼女なのだろう。別に、僕でもよかったではないか。人とは違う身体を持っていて、それゆえ世間に晒されるのが、彼女である必要がどこにあったんだ。
僕でもよかった。仮に、彼女は絶対にそうでないといけないというのなら、一人も二人も変わらないだろう。僕と真紀だけがこの世界で声帯を持ち、二人で一緒にその苦悩を分かち合いたかった。
立ち尽くし、いくら考えてみても詮無きことだ。思いを巡らすだけでは現状は変わらない。何か、何かしなければ、彼女を救えない。
僕はとにかく浜辺に降りて、人の海の最後尾に行ってみることにした。物理的距離が近くなれば、真紀へ近づけているような気がした。
真紀と会うための方法はないか。考えながら浜辺を歩き、最後尾に着いた。その位置は奇しくも、僕たちが初めて出会った場所だった。
海を眺める。あの夜、足を濡らした彼女を、僕が追いかけた。声を求めて、追いかけた。声とは、なんて素敵なんだろう、と思った。けれど、今はもう声を求めて彼女を追いかける僕はいない。真紀が真紀だから、僕は彼女を求めているのだ。今ならはっきり言える。真紀は――【声】よりも素敵だ。
夜の海の中に、何か瓶のようなものが置いてあった。
僕たちが二人して足を濡らした辺りだろうか、砂に突き刺して流れないように固定されているようだ。
周囲を見回す。皆、真紀の家があるであろう方角ばかりに目がいっていて、あの瓶には気が付いていないようだ。僕は一人足を濡らして、瓶を引っこ抜いた。
中には紙が一枚入っていた。それは、真紀からのメッセージだった。なんとも、原始的なやり方だなと思ったけれど、AIが発展しているこの時代においては、逆にアナログな方が人目につかないのかもしれない。
紙には一言【私は一人じゃない】と書いてあった。
僕は紙をズボンのポケットに仕舞い込んで、急ぎ浜辺を出た。近くで停まっていたタクシーに乗り込み、目的地を設定する。
真紀のメッセージは僕以外には分からないように、あえて不明瞭なものにされていたのだろうか。それとも、真紀の中に、僕に分かってほしいという思いと、分かってほしくないという思いがあった結果なのだろうか。
どうであれ。
タクシーは止まり、目的地に辿り着いた。
たくさんの【声】がある場所。無数の生命が、それぞれの想いを放出して、色とりどりの音色を奏でている場所。
【森の洞窟】。
内部を歩いて五分ほどしたところで、真紀は一人立っていた。
『お待たせ』
月光がほんのりと、梢の間から差し込んでくる。昼間のように陽光がないので、洞窟内は暗い。せいぜい、なんとか視力が機能しているくらいだ。だが、鬱蒼とした雰囲気はなく、穏やかで優しい空気を感じる。
だからこそ。目の前に立っている彼女の闇が、一層際立っている。
『別に、来てほしいなんて言ってないよ』
真紀は、声を出さなかった。周囲に人はいないけれど、それでも真紀は、脳内チップでの言葉を利用した。
『うん、そうだね。僕が勝手に来ただけだ。真紀が心配だったから』
『…………私じゃなくて……【声】が、でしょ?』
真紀は、笑った。笑いながら、泣いた。
相反するようなその二つは、真紀の絶望を表現しているようだった。
『違う。もう、声なんてどうでもいいんだ。僕は、真紀のことが――』
「違わない!」
真紀の声が、響いてく。動物や虫たちが、鳴き声を上げて、一斉に飛びだった気配がした。
「こんなものがあるから、皆、面白半分で近寄って来るの! 私はただ、平凡に生きていたいだけ。仕事をして、恋をして、傷ついて、悩んで、苦しんで。落ち込むこともたくさんあるだろうけど、側にいてくれる大切な人たちに助けられて乗り越えて行くの。そして私も、側にいてくれる人たちが苦しんでいたら助けてあげるの」
呼吸もまばらに、真紀は喋り続ける。震えるその声は、彼女の心情の全てのように感じられた。声という依り代を使って、心が外に飛び出している。
「人生って、そういうものでしょ? 別に、大それたことを望んでないよね?
皆が送っている人生だよね?」
ぐしゃぐしゃになった顔で、僕をじっと見つめる真紀。僕は、彼女から目を逸らしてはいけないと、そう思った。だから僕も、真紀の視線と交わるように、じっと彼女の目を見つめた。
「どうして私は、普通の人生を送っちゃ駄目なの!? 友達もいない、恋人もいない。家族とだって、ほとんど会話をすることもない。ずっと、怖かったから。この【声】が咄嗟に出て気持ち悪がられたら、私はきっと立ち直れない……だから。貴方と出会った時、涙が溢れるぐらい嬉しかった。認めてくれる人がいるんだと思って、嬉しかった……でも、やっぱり違うんだよ」
真紀の荒々しい声が徐々に静かになり、まるで囁いているかのように彼女は続ける。笑う顔、涙を流す目。震える口、か細い声。僕は、真紀の根底にある暗闇を、理解してあげられていなかったのだと、恥じた。
「家の周り、見たでしょ? 声を出す人間なんて、皆見てみたいよね。自分たちとは違う人間だもの、きっと面白いよ。貴方も、そうでしょ?」
違う、と。はっきり言える資格が、僕にあるのだろうか。真紀と出会った頃は、確かに彼女自身ではなく、【声】を求めていた。正直、真紀でなくとも、よかったのだ。
それでも――。
『違う。僕は、違う。もう僕は、真紀に【声】がなくとも、一緒にいたいって、そう思ってる』
真紀の表情は、何一つ変わらない。虚ろな目をしたままぽつりと、零した。
「そう。じゃあ、こんなものいらないよね」
慟哭。そんな言葉が、声を発していた時代にあったそうだ。それはまさに、今の真紀に当てはまる。
「あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛――――!!」
真紀は涙を流し身体を震わせながら、耳を塞ぎたくなるほどの声量で声を発した。何度も何度も続けて叫んで、時折掠れた声になる。それでも彼女は、叫ぶことを止めようとはしない。
『やめろ、真紀』
叫び続けるとどうなるのか。声帯を持たない僕には分からないけれど、掠れ苦しそうな声になっているところから察するに、身体によくないことは明らかだ。
どれだけ言葉を投げかけても、真紀は叫び続けている。言葉が駄目なら、無理矢理にでも止めないと。
そう思って走り出そうとした時――真紀は、吐血した。
『真紀』
走りながら、言葉を投げる。真紀は血を吐きながらもなお、叫ぶことを止めない。彼女に、言葉が届かない。僕の想いが届かない。感情が乗っていない機械音声なんかじゃ、彼女の心に到達するわけがない。
どうして。どうして僕は。どうして人は。声を失う必要があったんだ。
『やめるんだ、真紀』
彼女の側に駆け寄った僕は、彼女の肩を掴んで言葉を投げた。暴れながら叫ぶ真紀。僕は、真紀の手を口で覆った。だがそれでも、声はまだ漏れ出る。痛々しい叫びが、耳を切り裂いていく。
どうすればいい。
僕には、方法が分からなかった。だから。だから。
間違っているのかどうかとか、そんなこともどうでもよく。ただ彼女への。彼女への想いを。声を出せないのなら。行動で、示すしかない。
僕は暴れる彼女の身体を強く抱きしめて、彼女の唇を僕の唇で、塞ぎ込んだ。
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