声が消えた世界

7/8
前へ
/8ページ
次へ
 初めてのキスは、甘酸っぱい。そんなことを、どこかで聞いたことがある気がする。けれど、僕の初めてのキスは、そんな柑橘系を連想するような、青春の一ページのようなものではなかった。  鉄の味。  鈍く泥臭く。どす黒いその味は、想像していたキスの味よりもずっと、印象的で忘れらない味だった。  僕は唇を離して、真紀と向き合った。彼女は、突然の出来事に驚いたのか、叫ぶことを止めて俯いている。  真紀が今何を思っているのか、明確には分からないけれど、とにかく病院に連れて行かなくては。声帯を持っていることが知られて騒ぎ立てられるかもしれないけれど、彼女は血を吐いているのだ、そんなことを危惧している余裕はない。  僕は真紀の手を取って、無理矢理にでも引っ張って行こうとした。 「大丈……夫……だから」  掠れた声で喋る真紀。僕は声帯を持っていないけれど、その声を聞くと、妙に喉に違和感が走る。 『血を吐いてたんだ、大丈夫なわけないだろ。それに、声も出さなくていいから、病院に行こう』 「ちょっと……喉の奥が…………切れた、だけ」  咳き込みながら強がっている彼女を前にして、僕は逡巡していた。彼女の言葉を信用するか、それともやはり強制的にでも病院に連れて行くか。答えはすぐに出そうにないけれど、その前に彼女にもう一度言っておかなくては。 『真紀。声は出さなくていい』  喉が切れているのなら、喉を通って発せられる声を出すたびに痛みがあるはずだ。痛みを我慢して声を出す必要なんて、ない。  と。僕はそう思っていた。けれど、彼女は。真紀にとっては。  痛くても、辛くても、苦しくても。  声を出し続ける意味が――あった。 「声を……出してない……と。貴方が……側に、いてくれない……でしょ」  僕は、気付けばまた彼女を抱き締めていた。  真紀は、自分の声を呪って、嫌って、だから声を失うために声帯を破壊しようとした。叫び続けることで負荷をかけ、二度と機能してしまわないようにしようとしていた。  声があったからずっと一人で生きてきた。そして、声があったからこそ出会えた一人の男がいた。けれど、その男は自分ではなく、甘静真紀という女性ではなく、その【声】だけを見ていた。  自分以外でも、よかった。声が出せるのなら、自分でなくてもよかった。真紀は、僕のそんな愚かな心情を理解していた。  それでもなお、真紀は嬉しかったのだ。自分の側に誰かがいてくれるということが何より、嬉しかったのだ。  自分のことを見てくれていなくてもいい。最初は、そう思っていたのだろう。  でも。僕の彼女への想いが変わったように、彼女から僕への想いも変わった。僕が【声】ではなく彼女を求めだしたように、彼女も【声】よりも自分を見て欲しい、とそう思うようになった。  だから真紀は。涙を流し、身体を震わせ、血を吐くほどに。苦しんでいるんだ。 『ごめん。ごめん……』  こんな大事になる前に、僕が既に彼女自身を見ていることを伝えることが出来ていれば、真紀はこんなにも苦しまずに済んだのかもしれない。  もし僕が声を発することが出来ていれば、この想いが声に乗って、彼女に届いていただろうか。  起こってしまったことを悔いても意味はない。今更、僕がどんな言葉を投げようとも、機械的なその音は、彼女の心に届きはしない。声のような抑揚も温かみもない言葉では、心を震わせることは、出来ないんだ。  だから――。 『真紀。君が嫌じゃなければ、この先も僕と一緒にいてほしい』 「…………」 『そして、いつか。世界中を周って、安全で公にならない方法を探して、君の声帯を切除しよう』 「え…………」 『僕は。君が一緒にいてくれるなら、【声】なんていらない』  真紀は顔を上げ、目を丸くしながら僕の顔を見ていた。初めて真紀の声を聞いた時の僕も、こんな間抜けな顔をしていたんだろうか。  僕は笑って、彼女の頭を撫でた。サラサラと髪をすくその音は、声よりも心地よい音だった。真紀の呼吸の音。真紀の心臓の音。真紀が側にいると分かる音。それら全てが、【声】なんかと比べ物にならないほどに、僕を幸福で満たしてくれる。  【声】を求めて生きてきたこれまでの人生。僕はその中で、【声】を持った女性に出会った。それは、奇跡とも呼べる出会いだった。  いや、ここはやはり運命と言おう。ちょっとクサくて恥ずかしいけれど、僕たちは出会うべくして出会ったのだ。  僕と真紀が声の呪縛から解放されて、今のこの時代を生きて行くために、僕たちは出会う必要があったのだ。    人は、声を失った。  どうしてなのかは分からない。でも、声を失っているこの時代でなければ、僕たちは出会い、抱き締め合うことはなかった。だから、かなり傲慢であり得ないことだけれど、人が声を失ったのは、僕たちを出会わせるためだったのかもしれない。  誰かが聞けば、何を馬鹿なことを、と思うだろ。僕の腕の中で静かに涙を流している彼女も、そう思うに違いない。  それでもいいさ。 『真紀。愛してる』 『私も。愛してる』  僕たちは、もう一度唇を重ねた。ほんのりと血の味がして、彼女の苦痛を一緒に分かちあえているような感覚になった。  何度も唇を重ね合わせながら、僕たちは脳内で愛の言葉を投げ合った。口が塞がれたまま言葉を交わすのは、声を主流にしていた過去では不可能なことだろう。今の時代だからこそ、出来ることだ。  脳内に響く言葉は、抑揚もなく温度のない機械音声のようなもの。真紀の言葉の音も、別の女性が放つ言葉の音とほとんど変わらない。  僕以外の誰かが真紀の言葉を受け取れば、そう思うだろう。けれど、僕は違う。僕にははっきりと、彼女の言葉が【声】になって聞こえている。  それは、真紀が声を放っていたから思い出せる、というわけではない。無感情のようなその言葉の中に、明確な彼女の想いを感じ取ることが出来るからだ。  声にあった想いの重みを。脳内に響く言葉にも、感じるからだ。  周囲から、たくさんの【声】が聞こえ始めた。  その【声】は、僕にとって理解不能なものではあるけれど、【声】の先には、想いを感じ取る誰かが存在している。  叫んで。喚いて。鳴いて、泣いて。  たとえ声帯を持っていなくても、喉から出る言の音には、想いが込められている。心の奥底の、もしかしたら自分でも気付かないほどの場所にある想いが、そっと乗せられて、世界を漂い、特定の誰かに届くんだ。 「――――」  僕は、彼女の目を見ながら口を開いた。言葉を発したことがないので、口の形は見様見真似ではある。  当然、声などでやしない。言葉を出すつもりで口を開いて、空洞を空気が通って行く音と共に、息が吐きだされただけだ。  傍から見れば、女の子に息を吐きかけている変態に見えるかもしれない。別に、いいさ。 「……うん。私も……ありがとう」  この想いを伝えたい相手にだけ伝われば、それで十分。百万人に伝わらなくとも、ただ一人に届けば、それでいいんだ。 『今戻っても、まだ大勢の人で溢れてるだろうな。どこかで、真紀を休ませてあげたいんだけど……』 『……まさか、このタイミングで誘ってるわけじゃないよね?』 『……微塵も考えてなかったよ。でも……まあ、その。後日、真紀の喉が治ってから、良ければ……』  変態。そう罵られながら、腹部を殴られた。響きのない声を漏らしながら、真紀は笑っている。  僕もつられて笑う。  さっきまでの暗闇が嘘だったかのように、どんどん光が増してきて、気付けば洞窟内に陽光が差し始めていた。 『そういえば、どうやって家から抜け出してきたの? あれだけ人がいたら、難しかっただろう?』 『まだあんまり人が集まってない時に、窓から抜け出したの。外の様子がなんだかおかしいなと思って玄関まで行ったら、【声】がどうとかって言ってて、ああ、ばれたんだ、って。親にも言わずに飛び出してきちゃった』 『そっか。でも、海にメッセージを残しておいてくれて、助かったよ。じゃないと、ここだって分からなかった』 『え? 私、そんなの書いてないよ』 『いや、でも。《私は一人じゃない》って』 『ううん、書いてない。そもそも、すぐに家から飛び出してきたから、何も持ってなかったし』 『じゃあ、あれは――』  真紀以外の誰かが、書いたものだった。でも一体誰が、何のために? 僕たちのことを知っている人間なんて、誰もいないはずだ。強いてあげるなら、真紀の両親と、あの動画を撮った人ぐらいだろう。でも、その人たちも僕らの関係を熟知していたわけではない。 『多分、偶然だよ。私のように悩んでいた誰かが書いて、海に流した。そして、それが流れてそこにあったんじゃないかな』 『あまりにも出来過ぎてないか?』 『うん。でも、そういうものじゃないのかな。だって、和君があの日。あの海に来たのも、偶然でしょ? 私からしたら、それも出来過ぎって感じなんだけど』   『それは、そうかもしれないけど』 『気付いていないだけで、出来過ぎた偶然って、何回も訪れてるのかもね』  真紀はそう言って、僕にまたキスをした。  僕が産まれたのも偶然で、彼女が産まれたのも偶然で。僕が声を好きだったのも偶然で、彼女が声帯を持っていたのも偶然で。  そもそも。世界があること自体、偶然なのかもしれない。  奇跡だったり運命だったり、それらはただ、偶然の中の低い確率が的中しただけということで、全てが、たまたまの連続なのだとしたら。  そこに意味を見出すことに、意味はない。  だから。人が声を失ったことも偶然で、そうなる可能性も、そうならない可能性もあったのだ。  結局は結果でしかない。意味を求めて彷徨うぐらいなら、現状を受け止めて、それをしっかりと握り締めたまま歩いて行こう。  一人じゃ難しかったかもしれないけれど。今の僕には、最強の味方がついている。 『とりあえず、そろそろ帰ろうか』 『どこに?』 『……どこだろう』  真紀は、僕の足を蹴った。前にも同じことをされたけれど、構わない。僕は、真紀の身体が一番大事なのだ。だから、さっきも言ったように、まずは真紀の喉が治ってから。それが、大前提だ。      
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

17人が本棚に入れています
本棚に追加