声が消えた世界

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 人類は声を失った。  それは、義務教育の中で教わる一つの項目でもあるので、誰でも知っていることだ。ただ僕は、大人になって声に興味を持った。調べてみるとどうやら、約百年ほど前に、政府より発表があったそうだ。全人類の声帯消失が確認された、と。  僕なんぞが知る由もない、世界的に名のある人物たちがその原因を研究した結果、どうやら病気だとかそういったことではないらしい。  人類は、AI技術の発展によって約二百年ほど前から、産まれた赤子の脳にとあるチップを埋め込むようになった。そのチップは、信号を飛ばして別のチップに情報を伝えることが出来る。脳の回路の途中にそれを埋め込めば、人の脳から別の人の脳へと、信号を飛ばすことが出来るのだ。  それによってどういうことが出来るようになったのか。人は、声を発さなくても、自分の考えたことを相手に伝えることが可能になった。  当初は、声を出せない人のために行われていた研究だったそうだが、災害などの非常時に、どんな状況でも助けを求める言葉を伝えることが出来るというメリットが着眼され、世界中の権力者たちは、全人類に適用する方針を取った。  初めは抵抗する人がほとんどだったそうだけれど、人間という生き物はどんな状況にも慣れてしまうようで、数年たらずでチップの埋め込み作業は終了したらしい。  慣れて、そして人は、便利な物には依存する生き物だ。声を出すという動作も、少なからず体力を使う。それに、騒がしい場所だと上手く伝わらない時もあるし、逆に静かにしていないといけない場所では誰かに言葉を伝えることは難しい。  チップを使えば、簡単に言葉を伝えることが出来る。頭の中で言葉を並べるだけでいいのだ。不特定多数にその言葉を届けることも出来るし、ゲームのフレンドのように予め特定の人物をチップに登録しておいて、選んだフレンドのみに言葉を伝えることも出来る。内緒話も、苦労せずに行えるのだ。  チップの便利さを認識した人類は、徐々に声を発することをしなくなっていった。ゆっくりゆっくり、けれど確実に。世界中から、声の響きが失われていったのである。  必要のない物は不要だと、人の身体はそう判断したのだろう。これもまた、一つの進化なのかもしれない。人が声を発さないのであれば、それはいらないものであり、ならばと、声を発するための器官を、人の身体は消していったのだ。  一人二人、と。産まれつき声帯を持たない赤ん坊が、みるみるうちに増えていった。その状況に人類は、別段恐れを抱くこともなかったそうだ。僕はその実態を知った時、人類はこの時既に、身体よりも先に心の中から、声というものを忘れてしまっていたのだろう。  調べれば調べるほど、声に興味が湧いた。  動画サイトの中には、古い動画ではあるけれど、人間が声を発している動画が幾つかある。それを初めて見た時は、思わず涙を流した。響き渡る音の心地良さ、それに繊細だったり力強かったり、時と場合によって変化するその圧。脳の中に響くのではなく、外界から耳を通して体内に駆け巡るその声は、動画越しではあったけれど、僕の心を熱く震わせた。  チップを通して伝えられる言葉には、抑揚も色の変化もない。一定の速さで、同じ音階の言葉が並べられていくだけなのだ。  もし。  声というものを、機械を通してではなく、生身の人の身体から生音で聞いたら、どう感じるのだろうか。食べること、呼吸をすることに使うこの口から、あんな美しい音色が飛び出したりなんてしたら、どれだけ美しいだろうか。  僕は、遥か昔のことを思った。僕もあの時代に生きていたら、この身体から芸術とも呼べるような、声という旋律を奏でることが出来たのだろか。  世界中に声が満ちていた世界。想像するだけで、心が躍る。まるで、魔法が溢れる世界のようではないか。  僕は、現実であったはずの妄想の世界に、想いを馳せた。過去を想って、失い続けていくこの未来で、僕は歩を進めて行く。  家の外に出ると、外はすっかり陽が落ちていた。陽を浴びることは出来ないけれど、散歩でもしてこよう。一日中椅子に座って調べていたせいか、身体が固まってしまっていてあちこち痛む。軽い運動をして、ほぐさなくては。  目的地は特に設定することなく、家の周辺をぶらついた。空を走る車のエンジン音が、妙にうるさく感じる。声について調べている際に知ったことだけれど、昔は車も地上を走っていたらしい。僕がこうして歩いている道の上を、あんな機械の塊も一緒に走っていたと思うと、ぞっとする。もし、身体にあんな巨大なものがあの速さでぶつかってきたら、簡単に命を落としてしまうだろう。それとも昔の人間は、今の僕たちよりも強靭な肉体を持っていたのだろうか。僕が知らないだけで、声と同様、僕たちは他にも失っているものがあるのかもしれない。まあ、そんなことは、正直あまり興味はないのだけれど。  なんだか、心がざわつく。静かな場所で、ゆっくりと時を過ごしたい、そんな気分だ。昔のことを調べていたことで、僕の人としての記憶がノスタルジックな気分にでもなっているのだろうか。  僕は、静かに歩ける場所を探すことにした。色々と考えてみて、結論として出たのは、海だった。しかし、海までの距離を歩いて行くのは、かなり厳しいものがある。辿り着いた時には、額から汗を流して、脚もがくがくと震えていることだろう。電車にでも乗って移動すればいいのだろうが、駅までも遠いし、それにそこまでして海に行きたいかと言われれば、そうでもないような気もする。  どうしたものかと悩み立ち尽くしていると、上空からクラクションが聞こえた。見上げてみると、そこには一台のタクシーが停まっている。どうやら僕は、気付かない内にタクシーの停留所で足を止めていたようだ。 『乗車されますか?』  脳内に機械音声が響く。タクシーを利用すれば電車よりも高い金額を払わなければならないけれど、これも運命とでもいえるのかもしれない。せっかくだから、タクシーに乗って海まで行くとしよう。  僕が乗る意思を伝えると、タクシーから円盤式の簡易エレベーターが放り出された。地面に当たる手前で浮かんでいるそれに足を乗せて、僕の身体はタクシー内へと運ばれていく。  タクシーは無人で自動運転されるので、目的地は人ではなく車に向けて伝える。まあ、全ての車が自動なので別段珍しくもないことなのだけれど、車を持っていない僕にとっては、少し楽しかったりする。  目的地が設定されて、ゆるやかに車は動き出す。周囲を見渡しながら、僕は何をしているのだろうと、黄昏た。海に行って歩くことに何か意味があるのかといえば、きっとない。ただなんとなく、そうしたいと思っただけなのだ。  二十分ほどが経って、目的の海へと着いた。金額を見て、僕は後悔することになった。乗った時は忘れていたけれど、僕はこの後、また家に帰るのだ。当然、歩いてなど帰れないので、またタクシーを利用することになるだろう。僕は、フロントガラスに表示された金額をもう一度見やった。払うべき金額は、この二倍になるわけか。まったくもって馬鹿なことをしたものだ。自分で自分を叱責しながら、フロントガラスに掌をかざした。指紋が認識されると、自動的に僕の持っている口座から金額が引き落とされた。  昔はお札や硬貨なんてものがあって、小学生の頃に遠足で行った博物館で実物を見たことがある。お金というものに実体があったことに驚きと違和感を覚えたものだ。  タクシーから降りて、僕は浜辺へと向かった。辺りには何もなく、海と砂がただあるだけ。  海の上を、車が通ることはない。なんでも、車から発している電波が海に悪影響を与えるとかで、法律によって海の上空に道路を造ることは禁止されているらしい。  じゃりじゃりと砂を踏みしめる音、それと、波が揺れ動く音。さっきまで聞いていた人工物が生み出す音とは違って、何もうるさくは感じない。むしろ、心地良いぐらいだ。確かに音として聞こえているものがあるけれど、静かだ、とそう感じる。  人が発していた声も。この自然の音のように、心安らぐものだったのだろうか。  海を見て、思う。どうして僕は、こんな時代に産まれてきてしまったのだろう。  空想でもおとぎ話でもない。確かにあったはずの僕が求める世界に、どうして僕は産まれてくることが出来なかったのだろう。  考えても、詮無きことではある。過去へタイムスリップする方法でもあれば良かったけれど、それこそ空想の話でしかない。漫画の中や映画の中でしか描かれない、SFの世界だ。現実を悲観することは出来ても、否定することなど出来やしないんだ。  僕は、海を眺めながら歩いて行った。どこまで歩いたら帰ろうかとか、そんなことを一切考えることもなく、ひたすらとぼとぼと歩き続けた。  どこに行こうというのか、自分に問いかけても分からずにただ真っすぐと進んでいた。  そんな時だった。砂の音と波の音。それ以外の音が、僕の耳に届いたのは。 「どうして、私だけなんだろう」  僕は思わず立ち止まった。その音は、僕が今まで耳にしたことのない音だった。似たような音は知っていたけれど、それを実際に聞いたのは初めてだった。  そんなのは当たり前だ。だって、この音は。世界から消えたはずの音なのだから。聞こえるはずのない、声だったのだから。 「一人だけ、一人だけ。それでも私はここに――あ」  足を波で濡らしながら、一人の女性が立っていた。その女性は、僕の存在に気付くと、手で口を覆い隠した。その動作はまるで、口から出る音を遮るかのような動作だった。 『今のは、もしかして……声、ですか?』  僕は、彼女に問いかけた。呼吸が荒くなる。目が見開く。胸が高鳴り続けて、身体の内側が破裂しそうだ。 『いえ……そんなわけ、ないじゃないですか。声なんて、この世界にはありませんよ』  真っ暗なこの海で、彼女の抑揚のない機械的な言葉が脳内に響いた。僕は彼女に歩み寄り、彼女と同じように足首をまで濡らした。    暗かったせいで見えなかった彼女の顔が、はっきりと視認出来る距離まで近づくと、彼女が濡らしていたのは足だけではなかったことが分かった。波飛沫が飛んできたのだろうか、頬を伝うようにして、一筋の水が彼女の顔を濡らしていた。                    
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