日清戦争~近代日本最初の対外戦争下で、近代国家黎明期の庶民がどのように生きていたかということを描いていきます。

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だが、その伊東の願望を裏切るかのように、伊藤首相はもっとも厳しい決断を下そうとしていた。 6月30日、外相の陸奥宗光が芝の伊藤の私邸に来て、開戦が避けられないことを告げた。 「開戦が避けられないというよりも、君が戦争をやりたいのではないのか」 伊藤が断じると、陸奥が反論した。 「私が、というより閣下もやりたいのではないのですか」 伊藤は顔を曇らせた。 「目下、議会では内閣弾劾決議案が可決され、議会対策は行き詰まっているではありませんか。政府は解散を決意されましたが、政府系が総選挙に勝つためには、国民の目を政局からそらす事件が必要ではないのでしょうか」 それが戦争だと、陸奥はいう。 「そんなことのために、わしは戦争などしたりせん」 「議会対策だけではありません。わが国の財政が行き詰まっていることは、総理も盟友の井上公から聞いてご存知のはず。廃藩置県で旧大名衆から引き継いだ藩債、西南戦争で発行した国債は未だ返済しきっておりません。松方公による緊縮財政によって表面上、均衡財政を実現致しましたが、その反面、国民生活を維持・向上するための新規事業が打てる予算が捻出できません。このままでは財政面で政府が潰れるのは目に見えています。くわえて、目下の国民生活は、東京・名古屋・大阪などの工場で賃仕事をしても、一日の宿代・飯代にもありつけないという前代未聞の事態が起きております。これは今よりも後進的と思われていた徳川の時代にもなかったことです。国民は何かがおかしいと気づき始めています。明治23年の佐渡島の動乱などは、その典型ではありますまいか」 陸奥がいう「佐渡島の動乱」とは、1890年、主に北陸の新潟・富山で凶作による米価高騰を受けて起きた「米騒動」が佐渡に波及、同島の相川を中心に島全体が暴徒に「占拠」され、軍隊が出動して同島を「奪還」した事件であり、反乱としては明治17年11月の秩父事件以来の大規模なものだった。 本来であれば内乱として処理すべきところを、政府は「事件」として隠密裏に始末した。 「このままであれば、維新以来築いてきたものが失われます。今の政府がなくなり、われ等が失職するのは構わんでしょう。しかし、それでは、この日本という国が列強にのみ込まれて消滅してしまいます。閣下、ご決断ください」 「決断といっても、君と陸軍の川上(操六参謀次長)君が談合して、8千の一個旅団を漢城へ送ってしまったではないか。わしは、てっきり2千ほどだと思っとった」 「閣下を騙した形にしたのは申し訳ありません。しかし、今、戦争をやれば、この危機を打開できます。外相として列強は傍観の姿勢をとっておりますし、新たに国債を起こさなくても一億余万円の戦費は供給できます」 「食えない人間があふれているこのご時勢、一億円というのは大きい数字だぞ」 「それも戦争に勝てば、多くの賠償金が得られます。陸軍がかつて作成した清国征討策案では、蓋平以南の旅順半島、山東半島登州府、舟山群島、澎湖諸島、台湾および揚子江沿岸左右十里の地を併呑することは可能だと結論しています。また、食えない者たちに対しては朝鮮半島をわが国の支配下に置くことにより、安価な朝鮮米を内地に入れることができます」 「勝てばの話だろう」 伊藤は話を打ち切った。 陸奥が馬車を外務省へ走らせた後、娘婿の末松謙澄法制局長官を呼び、戦争への不安を告げると、 「陸軍の軍人に戦争の見通しを聞かれてはいかがでしょうか」 とアドバイスされた。 伊藤は安楽椅子にもたれたまま、 「陸軍は誰もやる気満々だよ」 何しろ「統帥権」だからね、とぼやいた。 「まさか、わしが記した憲法義解を議員でなく軍人が読むとはな」 「児玉源太郎少将はいかがでしょうか?」 末松がある軍人の名をいった。 良識ある軍人で、中立的な意見がもらえるのではないか、と末松がいった。 「児玉君か」 伊藤の脳裏にある小男の姿が浮かんだ。
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