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もし、日清戦争がなかったらどうなっていたか、というのは、あるいは愚問かも知れない。
少なくともいえることは、数年を経ずして政府財政は破綻し、議会工作もうまくいかず、現実の歴史が進行したように、明治31年の隈板内閣の成立は避けられなかったであろう。
史実では数ヶ月で瓦解したこの内閣も、財政難と民意を失った藩閥勢力では倒せず、数年続いた後、犬養毅が首班となり、軍部大臣以外が政党人で占められる政党内閣の時代が早く訪れた可能性がある。当然、ここでは遼東半島還付から発した日露戦争はありえないから、財政難にあえぎながらも戦費の負担なく、第一次世界大戦の好景気を迎えることができたかもしれない。
そのときには普通選挙も実現し、都市化・モダン化した社会が到来し、昭和30年代のような時代が訪れていたかもしれない。
伊藤との会談後、児玉は人力車で私邸に戻った。
その途次、徒歩で自宅へ帰る養女のヒロ子と出くわした。
「これはお義父様」
ヒロ子が一礼すると、児玉は人力車を降り、一礼した。
ヒロ子は児玉の主筋に当たる徳山藩主の庶子であるが、どういう理由からか児玉の家に預けられている。
その理由は、児玉にも分からない。
「姫様、どうぞ車へ」
児玉が慇懃に促すと、ヒロ子は礼を返して乗った。
ヒロ子が乗ると、その後ろにひとりの少女がいるのが分かった。
「この子は女学校で給仕をしている結衣ちゃん。いつもお世話になってるの。今日は遅くなったので送ってもらったの」
結衣が一礼した。
ヒロ子より一歳下の14歳だという。
三人は私邸に向かった。
その門前に何人かの男がいた。
「奥さん、無いのは分かってるんで少しでいいから払ってください」
「本当に無いんです」
児玉の妻の松子が頭を下げている。
借金取りだった。
児玉は、その気前の良さから安易に他人の保証人になったりして、巨額の借金を作っていた。
「おお、ダンナだ」
借金取りたちは児玉を見つけるとよってきた。
「無いものは無い」
児玉は突っぱねた。
そこへある髭の軍人がやってきた。
彼は手から銅貨を出し、
「今日はこれで帰ってくれ」
と追い返した。
「乃木、すまんのう」
乃木希典という軍人は私邸に入り、夕餉の支度が整っている中で児玉と対座した。
「お主も借金のことは考えたほうがいい。藩公もそれを心配してヒロ子様を下されたのだ」
毎月、ヒロ子の賄い料が届いているだろう、と乃木はいった。
「あれは姫様の食費と嫁入りのためのもの」
児玉がいうと、
「それで借金を返せという藩公のお計らいだ」
乃木はあきれた。
この時期の児玉の負債総額は一万円といわれる。
これを年利三分で借り入れ、月賦150円で返済するという約束である。
この原資は、村田清風が天保年間に行った藩政改革で得、倒幕の費用ともなった長州藩の撫育金100万両であり、このうち70万両は政府に上納され、残り30万両が毛利家の私的財産となった。
「藩公が一括して立て替えるという。無利子だ。それで返してしまえ」
乃木が進めると、
「里の実父も心配致しております」
ヒロ子もいったので児玉はそれを受けることにした。
夕餉が始まると乃木にも酒が出たが、結衣は立ち上がって「帰る」といった。
「いいじゃない。食べていきなさいよ」
ヒロ子が進めると、
「いえ、寄宿舎の門限があるので」
と出て行った。
少し駆けて立ち止まると動悸が激しくなった。
結衣は軍人が苦手だった。
それは、幼児期のある体験から来ていた。
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