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北京での交渉は難航していた。
代理公使・小村寿太郎は、清国との交渉を通じて、清が大国特有の鷹揚な姿勢を持って、小国日本の言の耳を貸そうとしない現状に手詰まりを感じ、これを打開するためには開戦以外にないと判断した。
小村は、列強の動向が日清戦争の行方を左右するとして、北京駐在の英公使オコーナーと協議を重ねていた。
そうした中で、北京駐在海軍武官の神田正明大尉は、ひそかに面識のあった清国海軍の軍人の手引きにより、頤和園にて西太后に謁見すべく長廊を歩いていた。
園内の楼閣の広間に西太后はいた。
この清朝を支配する老婦人威厳に押されたが、
「座りなさい」
の言葉に神田大尉は椅子に座った。
通訳には李全徳という女官がかかわり、このときも
「お椅子を賜ります」
と声をかけてくれた。
「林から聞きました。話が分る人であると」
林とは神田が昵懇にしている清国・北洋水師の軍人である。
「私は戦争を望んではいません。今、戦争をすることは、この国を滅びの淵に立たせます。私は再三再四、李(鴻章)総督にもその旨申し渡しておりますが、長年の悪習に慣れた彼の者たちは聞き入れません。よって、そなたに頼みたいのは、私は戦争を望んでいないこと。万一、戦争になっても、途中でいつでも戦さを止める用意があるということです。このことを帰国後に日本の指導者たちに伝えてほしいのです」
西太后は次のようなこともいった。
「聞くところによれば、日本の伊藤総理とやらは、若き日、英米仏などの大国との戦さを経験し、その惨禍のいかなることかを身を持って知っているというではないか。私も若い頃、英国の軍に追われて熱河へ逃げたことがありました。西洋文明がもたらす破壊こわさを知るもの同士として、この婆の言葉を聞いてくださるよう伝えてくだされ」
西太后との謁見が終わると、通訳の李全徳と園内の池の畔を歩きながら、
「怖い人かと思っていたが、その実はおやさしい方なのだな」
どこにでもいる迷信深い老婆であると、神田はいった。
その言葉に、李全徳は笑って着衣の袖をあげて、
「これは西太后様からいただいたもの。大后様はたいそう気前がよろしくて」
といった。
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