日清戦争~近代日本最初の対外戦争下で、近代国家黎明期の庶民がどのように生きていたかということを描いていきます。

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明治27年(1894)6月9日、伊藤祐亨の率いる常備艦隊は、仁川に入港した。 東学党の乱勃発で緊迫する朝鮮半島の情勢を受けてのことであった。 伊東は、海軍省主事の山本権兵衛大佐から届いた私信を読んでいた。 そこには外交交渉が行われている間は決して、清国艦隊と開戦するなという要望が書かれてあった。 (今、なぜ戦争をする必要があるのか?) この時点で、伊東は日清戦争が起きるとは予測していない。 たしかに清国との武力衝突を予測して、国民生活が窮乏しているにも関わらず、「浪速」などの巡洋艦を無理して購入してはいるが、もとより、それは沿岸防備用であり、長駆、黄海海面まで出て、巨艦を有する清国艦隊と戦うことは想定してはいない。 (今回も局地紛争で終わるだろう) 明治15、17年にも漢城で軍乱、政変があり、日清両軍が衝突したが、そのたびに協定や条約を結び、事なきを得ている。 何より、現首相伊藤博文は平和主義者である。 若き日、四カ国艦隊による下関破壊を見て以来、西洋文明の怖ろしさを熟知しており、戦争が文明の破壊をもたらす以外の何者でもないことを痛感しているのが、兵庫県知事などの文官の職にあって、あの戊辰戦争には参加していない伊藤博文だった。 (貧乏国の日本に戦争をする余裕はない) 今の政府は極度の財政難にあり、戦争をすれば、その戦費で破綻してしまうのは目に見えていた。 そこまで考えていたとき、二隻の巨艦が迫ってくるのが見えた。 清国・北洋水師の主力「鎮遠」「平遠」であり、「鎮遠」の艦長は総兵(少将)の林泰曾であった。 林は、伊東の常備艦隊を追尾して、仁川沖合を遊弋していた。 彼は日清開戦が必至と見て、日本艦隊が常備と西海に別れている間に、先制攻撃による各個撃破を李鴻章に進言したが、日本の藩閥政府と議会の対立激化を見ていた李は、海軍力が劣る日本が戦争を書仕掛けてくるとは思わず、退けた。 この対応を林は良しとせず、独断で向かってきたのである。 伊東はそれが挑発と見て、ラッパを吹かせ、将兵を甲板に立たせ礼式をとらせた。 勿論、林に対してである。 これを見て、林は艦橋に上がり、挙手の礼をとった。 両艦隊は見る見るすれ違った。 すれ違い様、「鎮遠」の備砲がこちらへ向けられているのを見て汗を掻いた。 そして、伊藤首相が必ずやこの危機を克服して、戦争を回避してくれることを、この司令長官は確信していた。
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