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母の死
大喜びした備中守は、産養いの儀を盛大に行うことにした。親戚、友人を集めて華やかな和歌や管弦の催しが延々と続けられたのである。
お祝いに訪れた貴族は皆、産まれたばかりの姫があまりにお美しい赤子だということに驚き、「かぐや姫もかくあらん」と嘆息するほどであったという。
「どうぞ、姫が幸せな一生を送れますよう、お守り下さい」
と、ご夫婦は霊験あらたかと言われる長谷寺の初瀬観音に御礼参りし、祈願することも忘れなかった。
奥方は、乳母もつけず、手ずから姫の御養育をなさった。姫はとても育てやすい御子で、両親の愛を一身に集め、すくすくと成長していった。
しかし、世のことは花に嵐の例えありて。
ある冬のこと、奥方は軽い風邪をひいた。大したことはないと思っていたが、次第に病は重くなっていく。
とうとう、彼女の命の火が消えるのは今日か明日か、というほどになってしまった。
「私たちを置いて行かないで下さい」
備中守と姫君は、奥方の手を取り、泣きながら励ました。周りの人たちも皆、その姿を見て貰い泣きしていたが、いよいよ臨終という時になって、奥方は人払いを夫君に願い出た。
「しばらく、姫と私を二人きりにして下さいませ」
息も絶え絶えに言う奥方の最期の願いを聞き届けようと、備中守も医師も親戚も、部屋を出た。
「姫、あなたを一人残して行く私の辛さ、あなたはわかって下さいますね? でも、私は黄泉の国へ旅立っても、ずっとあなたを見守っていますからね。どうぞ、どんなに辛いことがあろうとも、それを忘れないで」
奥方は、最期の力を振り絞り、枕元の経机に置いてある手箱を取った。そして、おもむろにそれを姫君の頭に載せた。更に、床の脇にあった大ぶりの黒塗りの鉢をその手箱に被せる。姫君の頭と顔は、鉢ですっぽりと隠れてしまった。
急に視界を遮られた姫君が、懸命に顔を上げたところ、倒れ伏してはあはあと荒い息を吐いている奥方の姿があった。
「お母さま!」
「姫、観音様の妙智力、いつもお前を守ってくれます。幸せになるのですよ……」
「お母さま! お父さま、お母さまが!」
姫の絶叫に、皆が部屋に飛び込んだ時には、既に奥方の息は絶えていた。
【註】
手箱)手元に置いて使う品物を入れておく箱
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