13人が本棚に入れています
本棚に追加
第12章 雨の休日
あの日、私は久しぶりに休みを取りました。しかしせっかくの休みだというのに朝から雨が降っていたのです。
(雨の日は憂鬱になるな)
そう思って昨夜から決めていた服をタンスの中に戻しました。私はため息をつきながら仕方なくリビングに行くといつもは時計代わりにしていた朝の情報番組を無目的に眺めていました。
「なんだ、いたのか?」
するとそれからどれくらい時間が経ったのでしょうか、連日の遅い帰宅でずっと顔を合わせることがなかった父がお昼近くになってリビングに下りて来ると、私がそこにいたことに驚いてそう言ったのです。
「うん。今日は休みだったの」
「それは残念だったな。せっかくのお休みが雨になっちゃったな」
「うん」
それから父は遅めの朝食をとると、さてどうしようかとそわそわし出しました。
「出掛けるの?」
「え、ああ」
「どこへ?」
「うん、ちょっとな」
父の返事がはっきりしないので、私はどうしたのかと思いました。
「最近風邪気味で医者にかかったんだけど薬が切れてしまって」
「そうなんだ」
「それで病院に行って薬だけでもって思ったんだけど」
「私が行って来ます」
「え」
「父さん体調悪そうだし、私が行って来ます」
「そうか、悪いな」
「ううん。家にじっとしていても仕方ないし」
「ありがとう」
私はそれで一旦は行くことを止めた外出をすることになりました。しかし雨が降っていたので服装は夕べ考えたものとは違うものにしました。
父が通っていた病院は父が仕事をしていた時から懇意にしているところで、私の職場からも近いところにありました。どうして会社を辞めた今もそんな遠いところの病院に通うのだと思い、近くのところに変えたらどうかと父に言ったこともありましたが、どうしても行き慣れたところがいいと言い張って、それでそれからも父はずっとそこに通っていたのでした。
「まあたまにしか行かないところだから別にいいじゃないか」
父はそう言いました。私もその時はそうかなと思ったのですが、実際にこうやって行く必要が出て来ると、1時間半もかけて通わなくてはならないことにやっぱり自宅の近くに掛かりつけを見つけて欲しかったと思ったのです。
私は自宅からバス停に行って、そこから駅までバスに乗り、そして駅からいつもは通勤に使っている電車に乗り込みました。すると、今日はいつもとは違ってそれが満員電車ではありませんでした。それでゆっくり座れたのが何か特別待遇を受けているような気分になりました。それでこれは休日ならではのプレゼントかしらと思ったのです。私は仕事ではないのに仕事と同じ道のりを通っていることがなんかとても不思議な感じになりました。
そしてどれほど走ったでしょうか。危うく眠りそうになった頃、私は目的の駅でその特別な電車を降りたのです。それは会社に行く時に降りる二つ前の駅でした。しかしいつもの癖は怖いものです。私は危なくその駅を乗り越すところでした。私はホームから改札を通って外に出ると急に雨の音が聞こえて来ました。
外はまだ雨が降っていました。電車の中ではまるで気にならなかったことが、これから病院まで行く間はその雨の中を突き進んで行かなくてはならないことに急に憂鬱になりました。それで私は傘がありましたがタクシーを使ってしまいました。それから病院に着くと、処方箋を書いてもらい、会計を済ませると病院の目の前にあった薬局に入りました。そして全ての仕事が終わってその薬局を出た時でした。私は後ろから声を掛けられたのです。
(あ)
振り返るとそれは堂本さんでした。私は一瞬で固まってしまいました。しかし固まってはいましたが同時にとても懐かしい思いがこみ上げて来たのです。
(どうして?)
「どうしてここに?」
すると堂本さんは私の方ににこやかな顔をして近づいて来て、私が思ったことを先に言ったのです。
「父の薬をもらいに」
「藤木さんのお宅はこの近く?」
「いいえ」
「あ、そうなんだ」
「父の勤めていた会社があるので」
私はそう言った瞬間、それでは説明にならないと思いました。
「僕は午後から早退して健康診断」
「あ、それで」
しかし私はそう言ったものの事情がよく飲み込めてはいませんでした。健康診断は先月会社にその手の業者が来て終わったはずでした。
「先月の健康診断、急な出張で受けられなくてね。それで今日ここで受けろっていうことになったんだよ」
「ああ」
「でも久しぶりだね」
「あ、はい」
その日は堂本さんとイベントの仕事をして三ヶ月くらい経っていました。
「もう用事は済んだの?」
「はい」
「じゃあもう帰るんだ」
「はい。堂本さんは?」
「僕ももう会社には戻らないし、っていうか朝から何も食べてないから何かお腹に入れようかと」
「あ、そうですね」
「雨だからタクシーで駅まで行って、それでご飯でも付き合わない?」
「え」
「昼食は済ませた?」
「いいえ」
「じゃあちょっと遅めの昼食だけど」
「あ、はい」
堂本さんとはイベントでご一緒した時に、毎日のようにランチを共にしていました。時には夕食にも同行したことがあったのです。それで別に気兼ねすることもなく彼について行きました。
そのお店で私たちは窓際の席に案内されました。そこは駅までは歩いて数分のところにあるビルの二階にあって、窓からは傘を差しながら道行く人を眺めることが出来る席でした。堂本さんは始終笑顔でしたがどんな話をしようかと迷ってる感じもしました。
「何度も一緒にランチをご一緒したけど、雨の日はなかったね?」
「ランチは地下の社員食堂でしたから外が雨なんて気にならなかったのでどうだったか」
「そうだね。イベントの話に夢中になってたから外がどうだとかいうことも気にならなかったしね」
「夕食を外でご一緒した時はどうでしたでしょうか」
「そんなことも何度かあったね」
「あ」
「え?」
「確か一回雨の時がありました」
「そうだっけ?」
「はい」
「そうなると雨は二度目か。でも雨のランチは初めてということになるね」
「はい」
「でもそれがどうしたって感じだよね」
堂本さんはそう言って頭を掻いて笑いました。
あの日、急な雨が降って来て私は傘を持って来なかったからどうしようと困っていると、それに気がついた堂本さんが遠くから自分の傘に入れと声を掛けてくれたのです。しかし私が一瞬どうしようかと迷っていると堂本さんの課の成田さんが彼の傘の中に走りこんでしまったのです。それで私は飯塚係長の傘に入れてもらうことになりました。私はどうしてあの時一瞬でも迷ってしまったんだろうと後悔しました。私は傘の中で早く目的地に着いて欲しいとそればかり思っていました。
「最近藤木さんの噂をよく聞くよ」
私がそんなことを思っていると堂本さんが別の話題を振って来ました。
「え、どんな噂ですか?」
「藤木さんが優秀な社員だって」
「え!」
「藤木さんにはイベントの時に本当に助けてもらったから、うちの課長がその発信源かなと思ったんだけど、それだけではないらしいんだ。どうやら藤木さんのとこの課長も同じ噂を流してるらしいんだよ」
堂本さんはそう言って私を優しい目で見ました。私はその時、彼に包み込まれたような感覚に陥ったのです。
「やだ」
「やだって、不本意だってこと?」
「いえ、そういうわけじゃ」
私は自分の顔が赤くなっていないか心配になりました。
「実はね、ここで今日会ったのも何かの縁だろうから話してしまうけど、うちの課で是非藤木さんを欲しいって藤木さんの課長に話をしているんだよ」
「え!」
「よっぽどうちの課長も藤木さんが気に入ったらしい。いや、課長だけではなく僕をはじめ、課のみんなが同じ意見でね」
「そうなんですか」
「うん。それで課長に直訴したところ課長も同じことを考えてたってわけなんだ」
「うわ」
「それで課長と僕らが団結するなんて初めてのことだって大笑いしてね」
「どうしよう」
「ところがうちの課長が藤木さんのとこの課長にその話を持って行ったら、うちの藤木は絶対にやれないと言われたらしいんだ」
「そうなんですか?」
「来年のイベントに向けて是非と思ったんだけどね」
「どうなるんでしょう?」
私はこの時、堂本さんの課に異動してもいいかなと思いました。いえ、是非異動したいと思ったのです。
「そちらの課長がうんと言わないとね、難しいかもしれないね」
「そうなんですか?」
「うん。それに藤木さんを主任に昇進させる話も出てる。あ、これは内々の話だけどね」
「私を主任に?」
「うん。ちょっと異例だけど、藤木さんのとこの課長が藤木さんを手放したくないがために部長に働きかけてるって聞いたよ」
「どうしよう」
「受けたらいいさ」
「え?」
「こんな名誉な話はないよ。藤木さんは入社して二年目でしょ。それで主任なんてうちの会社では前例がないもの」
「はい」
「藤木さん、輝き出したね!」
「あ・・・・・」
「僕も応援してる。だからもし何か困ったことがあったら遠慮なく言ってくれていいし」
「ありがとうございます」
雨の日は憂鬱になる。でもこの日は違ったのです。それはどうしてかと思いました。
(私が会社でそんな評価をされていることを知ったから?)
(私が出世するという話を聞いたから?)
私はその翌年の4月に堂本さんが言ったとおりに主任に昇進しました。
最初のコメントを投稿しよう!