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「私の、ため……?」
真幌は、望んだ。
再び織戸山へと帰ることを。
「私が、望んだから」
そして千景もまた、望んだのだ。
真幌がその望みのために生きることを。
すべてを悟った途端、声がわなないた。
「だからなのですか……?」
真幌が生きるために。
真幌の望みを、叶えるために。
そのために千景は、自らの命をかけた。世を滅ぼす定めを課せられた自らの生を、今度こそ祈依川に浄めさせようとしたのだ。
真幌は泣いた。
震える手で龍笛を抱きしめ、声を上げて泣いた。
けれど涙を流し尽くした末に、再び顔を上げた時……その瞳には、確かな決意が秘められていた。
その双眸を見て、和音は大きなため息をついた。
そうして、確信を込めて尋ねてくる。
「……行くのですね、真幌」
真幌はうなずいた。
その決然とした眼差しに、迷いなどなかった。
「はい。私は……昏き道の沼へ、向かいます」
穢れに呑まれた千景を連れ戻すため、昏き道の沼へと入る。
そのことが何を意味するか、真幌も和音もよく知っていた。
「昏き道の沼は、死霊の世界。千景のように穢れでもって死の気に対抗しない限り、生きた者が足を踏み入れることは叶いません。ですから真幌が彼を追うというのなら、取るべき方法は一つ」
「身体から魂を切り離し、沼へと飛ばすこと……」
「そうです。そしてそれがどれほど危険なことかは、わかっていますね」
真幌は固唾を飲んでうなずいた。
身体と魂はたとえ分離させようと、生きている限りは分かち難く結びつく。魂のみとなって行動している間、もし魂が傷つくようなことがあれば、沼の外に残された身体も同じように傷を負うのだ。
昏き道の沼は、死霊の巣窟。生きた魂が歩いているのを見て、死霊が大人しくしているとは考えられない。
けれど……もう、行くと決めたのだ。
和音は苦い表情で考え込んだ後、頭を振った。
「だめです、真幌。やはり危険すぎる。千景のことは忘れるほかない。彼が穢れに抗い切れなかった以上、もはや顕現した領主と戦うしか術は残されていないのです」
真幌はすぐさまその言葉を否定しようとした。
けれどそれを遮って、和音はさらに言葉を重ねてきた。
諦めの滲んだ苦笑を顔に浮かべながら。
「……と、私がいくら止めても、あなたは行くと言って聞かないのでしょうね。それならば、一つだけ約束してください。それができるならば、私はあなたを黙って見送ることにします。――必ず帰ってきなさい、真幌。わかりましたね」
真幌は強くうなずいた。
和音に向けて、深く、深く頭を下げ、誓うように言う。
「はい、必ず戻ってきます。ですからその間……真凪月の村の守護を、よろしくお願いします」
そうして和音に見送られ、真幌は今……魂送りの洞の前へと来ている。
不気味な暗闇を湛えた洞に一歩足を踏み入れた途端、肩の上にずっしりとかかるような空気の重みを感じる。こうして奥へ、奥へと歩くたび、暗闇は濃密になっていき、死の世界へと近づいていくのがわかった。
やがて手に持った提灯が、行く手を遮る濁った水面を映し出す。
「ここが……」
声が洞に反響する。
そこは、行き止まりだった。
待ち受けるのは、提灯の光を受けて黒々と光る小さな沼。
手前には二つの岩があり、その間に注連縄が張られている。
――昏き道の沼。
ここがその入り口なのだ。
この奥に昏ノ国への道が通じており、その先に千景がいる。
すると、どこかから風が吹き、沼の表面がかすかに揺らめいた。空気が圧を増し、重く淀んでいく。それは、まるで死の国から寄せられる警告のようだった――これより先に踏み入るな、この場を立ち去れ、と。
それ以上何かが起こったわけではないのに、背筋を悪寒が駆け抜けた。
得体の知れない恐ろしさに足が竦みそうになるが、軽く頭を振ってそれを紛らわす。
それでも真幌は、行かなくてはならないのだから。
その場に座し、真幌はただちに儀式の準備を始めた。
身体と魂を切り離す術。
それは、その手順こそ聞いたことがあったが、一度として実行したことのないものだった。
洞の内部には、真幌が作業をする音だけが、いやに大きく響く。
これほどまでに静かな場所を、真幌は知らなかった。
静寂を通り越して、ここには音が一つも存在していないのだ。
そうして、すべての用意はできた。
目を閉じ、静かに呼吸を繰り返す。指先に感じる心臓の拍動、血の流れに呼吸を合わせ、やがて身体を構成するすべてが、ゆるやかに廻りながら一つの小さな光となっていくさまを想起する。
そうして、その光が沼の底へと沈んでいくのを心に思い浮かべた瞬間。
沼のそばに座したまま魂を失った身体は、その場に静かに崩れ落ちた――
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