7.春の音を

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「私の、ため……?」  真幌は、望んだ。  再び織戸山へと帰ることを。 「私が、望んだから」  そして千景もまた、望んだのだ。  真幌がその望みのために生きることを。  すべてを(さと)った途端、声がわなないた。 「だからなのですか……?」  真幌が生きるために。  真幌の望みを、叶えるために。  そのために千景は、自らの命をかけた。世を滅ぼす定めを課せられた自らの生を、今度こそ祈依川に浄めさせようとしたのだ。  真幌は泣いた。  震える手で龍笛を抱きしめ、声を上げて泣いた。  けれど涙を流し尽くした末に、再び顔を上げた時……その瞳には、確かな決意が秘められていた。  その双眸を見て、和音は大きなため息をついた。  そうして、確信を込めて尋ねてくる。 「……行くのですね、真幌」  真幌はうなずいた。  その決然とした眼差しに、迷いなどなかった。 「はい。私は……昏き道の沼へ、向かいます」  穢れに呑まれた千景を連れ戻すため、昏き道の沼へと入る。  そのことが何を意味するか、真幌も和音もよく知っていた。 「昏き道の沼は、死霊の世界。千景のように穢れでもって死の気に対抗しない限り、生きた者が足を踏み入れることは叶いません。ですから真幌が彼を追うというのなら、取るべき方法は一つ」 「身体から魂を切り離し、沼へと飛ばすこと……」 「そうです。そしてそれがどれほど危険なことかは、わかっていますね」  真幌は固唾(かたず)を飲んでうなずいた。  身体と魂はたとえ分離させようと、生きている限りは分かち難く結びつく。魂のみとなって行動している間、もし魂が傷つくようなことがあれば、沼の外に残された身体も同じように傷を負うのだ。  昏き道の沼は、死霊の巣窟。生きた魂が歩いているのを見て、死霊が大人しくしているとは考えられない。  けれど……もう、行くと決めたのだ。  和音は苦い表情で考え込んだ後、頭を振った。 「だめです、真幌。やはり危険すぎる。千景のことは忘れるほかない。彼が穢れに抗い切れなかった以上、もはや顕現した領主と戦うしか術は残されていないのです」  真幌はすぐさまその言葉を否定しようとした。  けれどそれを遮って、和音はさらに言葉を重ねてきた。  諦めの滲んだ苦笑を顔に浮かべながら。 「……と、私がいくら止めても、あなたは行くと言って聞かないのでしょうね。それならば、一つだけ約束してください。それができるならば、私はあなたを黙って見送ることにします。――必ず帰ってきなさい、真幌。わかりましたね」  真幌は強くうなずいた。  和音に向けて、深く、深く頭を下げ、誓うように言う。 「はい、必ず戻ってきます。ですからその間……真凪月の村の守護を、よろしくお願いします」  そうして和音に見送られ、真幌は今……魂送りの洞の前へと来ている。  不気味な暗闇を湛えた洞に一歩足を踏み入れた途端、肩の上にずっしりとかかるような空気の重みを感じる。こうして奥へ、奥へと歩くたび、暗闇は濃密になっていき、死の世界へと近づいていくのがわかった。  やがて手に持った提灯が、行く手を遮る濁った水面を映し出す。 「ここが……」  声が洞に反響する。  そこは、行き止まりだった。  待ち受けるのは、提灯の光を受けて黒々と光る小さな沼。  手前には二つの岩があり、その間に注連縄(しめなわ)が張られている。  ――昏き道の沼。  ここがその入り口なのだ。  この奥に昏ノ国への道が通じており、その先に千景がいる。  すると、どこかから風が吹き、沼の表面がかすかに揺らめいた。空気が圧を増し、重く淀んでいく。それは、まるで死の国から寄せられる警告のようだった――これより先に踏み入るな、この場を立ち去れ、と。  それ以上何かが起こったわけではないのに、背筋を悪寒が駆け抜けた。  得体の知れない恐ろしさに足が(すく)みそうになるが、軽く頭を振ってそれを紛らわす。  それでも真幌は、行かなくてはならないのだから。  その場に座し、真幌はただちに儀式の準備を始めた。  身体と魂を切り離す術。  それは、その手順こそ聞いたことがあったが、一度として実行したことのないものだった。  洞の内部には、真幌が作業をする音だけが、いやに大きく響く。  これほどまでに静かな場所を、真幌は知らなかった。  静寂を通り越して、ここには音が一つも存在していないのだ。  そうして、すべての用意はできた。  目を閉じ、静かに呼吸を繰り返す。指先に感じる心臓の拍動、血の流れに呼吸を合わせ、やがて身体を構成するすべてが、ゆるやかに(めぐ)りながら一つの小さな光となっていくさまを想起する。  そうして、その光が沼の底へと沈んでいくのを心に思い浮かべた瞬間。  沼のそばに座したまま魂を失った身体は、その場に静かに崩れ落ちた――
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