1.巫女の旅立ち

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 豊かな森と美しき山々に抱かれた、人と神とがともに住まう地、磨見(まみ)ノ国。  その都である璃久扇は、志緒神社のある織戸山から、遠く南に離れた盆地に位置している。  大通りには出店が並び、客を呼ぶ声がひっきりなしに響き渡る。大勢の人々が笑いさんざめきながら練り歩く。――昼間こそ、そうした活気に満ち(あふ)れている都であるが、日が落ちた後は打って変わり、波が引くように静寂するのが常だった。  天に昇った白い月は、星の瞬きさえ()き消すほどに明るい光で都を照らす。  その冴え冴えとした月影の下、沈黙する通りを歩む、一人の男の姿があった。  ほのかな銀光を帯びる髪は、春、山麓(さんろく)を覆う(かすみ)のような淡い銀色。その瞳には、野山でただ一輪咲く竜胆(りんどう)の花のような、深い青紫の色彩を秘めていた。  男は通りの突き当たりを一度曲がると、川にかかる緋色(ひいろ)の橋に足を踏み出す。ゆるやかな川の流れにさざ波を立てて吹く風が、彼のまとう衣の裾をはたはたあおった。月明かりを浴びた衣には、見る者に不吉を感じさせる(けが)れの色――どろりと濁った黒色が滲んでいる。  やがて彼は目的の場所にたどり着き、そこに立ち止まった。  見上げるばかりに堂々たる(たたず)まい。その前に立つ者を威圧せんばかりの大鳥居の前である。  鳥居の近辺に配置されていたらしい衛兵が、闇の中からすかさず姿を現した。 「貴様、何奴(なにやつ)」 「西の関所の掃除が済んだ」  衛兵らは揃って息を呑み、鼻白んだ。彼らの背に戦慄の走る音さえも、聞こえてきそうなほどの沈黙。  衛兵らはしばらく顔を見合わせていたが、やがてそのうちの一人が鳥居をくぐり、奥の大門の先へと駆けていく。衛兵の行く先には、絢爛(けんらん)たる緋色の柱の巨大な建造物――大社が闇夜の中にそびえていた。  その後、男が通されたのは、拝殿内奥にある大広間。  天井に吊るされた灯籠(とうろう)には明々とした炎が灯り、見事に染め上げられた壁の白と、丹塗(にぬ)りの(はり)のあざやかな赤が、夜闇に暗く浮き上がって見えた。  もうだいぶ夜も更けているというのに、その畳敷(たたみじ)きの間には、槍を手にした衛兵、術符を(ふところ)に忍ばせた神官が何人もはべっている。その人数が示すのは恐れに他ならなかった。大社の重鎮が男に対して抱く、恐怖と警戒の現れだ。  案ぜずとも、彼には大社の者どもに害成そうという気はさらさらない。それ以前に、(おびや)かす価値さえ見出せぬというのに。  一通りの報告を終えると、男は込み上げた暗い笑いを心の奥底に押し込めて、高みに座す祭主の姿を不敵に見据えた。  年老いた祭主はしばし言い(よど)む様子を見せた後、厳粛(げんしゅく)に切り出す。 「先ほどから、あれほど禍々(まがまが)しかった西の邪気を一切感じぬ。しかもそなたの衣のその穢れ。これでしばらくは、民も心を落ち着けることができようて。すべて、そなたのおかげだ……千景」  そうは言いながらも、声音には憂いが色濃く(にじ)んでいた。当然だ。どこの馬の骨とも知らぬ術師に、またしても遅れを取ったのだから。
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