1.巫女の旅立ち

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 ――その昔、磨見ノ国は原初の神たる天涛大神(あめなみのおおかみ)により、混沌の内に作られた。  天涛大神の御手(みて)によって築かれし霊峰(れいほう)からは澄水が湧き、それはやがて大河となって、原初の世界を覆い尽くす、穢れという穢れをすべて浄め(はら)ったという。  やがて祈依川(きよがわ)と呼ばれることになるこの大河は、新たな神々を生み出し、この世のあらゆるものに生を授けた。大地には草木が萌え、やがて野に(したた)る緑からは人の子が現れた。林には鳥獣が住み、水地には魚が泳ぎ出す。  こうして世界は誕生したが、しかし混沌はなおも残り、隙あらば神や人ごと世界を呑み込まんと邪気を生み出した。邪気に憑かれた魂は邪霊に変わり果て、神ならば荒ぶる邪神となって、命あるものにすべからく害を成す。こうした邪なるものを祓うのが、神官の務めの一つだった。  このところ、璃久扇には邪気が頻繁(ひんぱん)に現れ、そのために怨霊や荒ぶる神による災いが絶えなかった。その上、都を守護する精鋭の神官をもってしても祓い切れぬほどに、その邪気は強いとくる。  頻発する災いを鎮める力が大社には不足している。さらに、大社の神官が用いる古くからの術式よりも、市井(しせい)の術師の使う術式の方が優っているなどという事態が知れれば、都の民は混乱に陥り、たちまち大社への信が揺らぐことになりかねない。  ゆえに、大社の神官をも凌ぐ力を有する術師――千景の存在を、大社は強く警戒しているのだ。  そういった事情をことごとく汲み取った上で、千景はあえて傲然(ごうぜん)と言い放つ。 「あの程度、造作もない。祭主様、ならびに、こちらにお集まりになった方々の力で守護するには、この都はいかばかりか大きすぎると見える」  瞬間、もとより緊張を(はら)んでいた場の空気がさらに張り詰め、凍りついた。神官や衛兵らが、激昂を必死に抑え込もうとしているのだろう。衣の袖を握り締める音、槍の刃が打ち震える音が異様なまでにその場に響く。 「皆、気を静めよ」  膨れ上がる怒気を看過できぬものと判断したのか、祭主が凛とした声を上げた。 「千景。私の言葉に偽りはない、そなたには感謝している。その上、我らの力のみでは守り切れぬほどに、都が危機に瀕しているというのも、確かなことであろう。そなたの言葉を、我らは重く受け止めねばならぬ。だが私からも、そなたを思って一つ、伝えておきたいことがある。――傲慢無礼、恐れ知らずのその態度、必ずやそなたの身を滅ぼすぞ」  千景は喉の奥で低く笑った。  滑稽で仕方なかったのだ。誰も、何も知らないことに。  そう、ここに居合わせる神官や衛兵はもちろん、すべての神職を統べる祭主さえ、近いうちに直面することになる災厄について、何一つ知らない。  だから千景は、皮肉を込めて笑い飛ばす。 「これはこれは。ありがたいご忠告、痛み入る。祭主様からのせっかくのお言葉だ。無駄にしないよう、せいぜい気をつけることにしよう」  そうして報告を終えた千景は、祭主や神官らの鋭い眼光を一身に受けながら、悠々とした足取りでその場を後にした。  外に一歩出るなり、人里離れた野山に吹く風を浴びた時のような、胸のすく清々(すがすが)しさを覚える。  怨霊を蹴散らし、我を忘れた神を叩きのめすのは小気味よい。だがそのたびに、ああして大社の連中へ逐一(ちくいち)報告へ出向いてやらねばならないのが、心底面倒だったのだ。  今宵は月が満ちている。足元を照らす提灯(ちょうちん)がなくとも、路地は充分に明るかった。帰途につきながら、千景は空を仰ぎ見る。  この身に宿る(くら)き意志を知り、それを成し遂げんがために力を振るうことを決意してから、月は何度満ち欠けを繰り返しただろうか。  ――もう、まもなく。  天涛大神によって浄められしこの国は、穢れに侵され、滅びを迎える。  千景は身の内で(うごめ)く穢れの(かたまり)に意識を傾けながら、薄く笑んだ。 「じきに刻限は訪れる。――ほう、そうか、嬉しいか。ようやく、貴様らの望みが叶うのだからな」  言葉は誰に聞かれることもなく、夜風にさらわれ消えていく。  立ち去る千景のその双眸(そうぼう)には、かすかな金の輝きが(ひらめ)いていた。
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