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か細い悲鳴が、雨の夜の静寂を切り裂く。
「…………っ!」
真幌ははっと目を開くと、その場に慌てて起き上がった。
安らかなまどろみから目覚めたばかりだというのに、心臓がどくどくと高鳴っている。身を起こした瞬間、額に嫌な汗が滲むのを感じた。
――悲鳴。
悲鳴が、聞こえた気がしたのだ。何か恐ろしいものに襲われ、誰かに救いを求めているかのような切実な声が。
夢か、現実か。夢の中で耳にした声であったならどんなにいいかと考えかけるも、そんな真幌の願いはすぐに打ち砕かれる。
階下が異様に騒々しい。飲めや歌えやの浮かれ騒ぎの時のような、弛緩した騒がしさではない。身体の芯から体温を奪い去っていく、寒気を伴ったざわめきだ。
まるで、身体の内側を濡れ手で撫ぜられているかのよう。そんな胸騒ぎを、どんな時に感じるか。巫女である真幌は、それを経験から知っていた。
真幌は一度目を閉じると、胸の上に手を添えた。そのまま何度か、深呼吸をする。どくん、どくん、どくん……少しずつ、心臓は落ち着きを取り戻していった。まもなく冷静さを取り戻した真幌は、さっと立ち上がり、壁際に置いていた荷物を探る。
取り出したのは大幣――榊の枝に紙垂を取りつけた浄めのための道具、さらに鈴を連ねて作られた神楽鈴である。さらに、小袖の懐に術符と形代をしまってあるのを確認すると、真幌は宿を出て街路へと飛び出した。
途端、顔面に吹きつけるのは、夏の夜気のようにじっとりとした湿りを帯びた、生臭い風。
通りに人の姿はほとんどなく、見かけたのは何かに怯え、息せき切って逃げ去る最中の者が数人のみだった。どうやら、大方の人々は、すでに建物内に避難を済ませているらしい。
志緒神社周囲の村落では、邪気が出た場合、対抗手段を持たない人々はただちに屋内へと退避するようにとの決まりがあった。おそらく都でも、同じように定められているのだ。
風が流れてくる方角へ、邪気の発生源へと真幌は足早に進む。おそらく都の神官達も騒ぎを受けて集まっているだろうが、邪霊や邪神を鎮めるのに、人手は可能な限り多いにこしたことはない。
そしてまもなく辿り着いたのは、宿屋街の前にかかる木橋の前。
「これは……」
すでにそこには何人かの神官が駆けつけており、霧雨の降りしきる中、大幣を掲げ浄めの儀を始めていた。左に右にと紙垂の揺れる規則的な音、そして、祓え給い、浄め給えと唱える声が、絶えず宵闇を震わせている。
真幌もまた、すぐさま彼らに混じり、儀に取りかからなければならない。
……だと、いうのに。
緋色の欄干上で逆巻く黒い靄状の塊に、束の間、一切の思考を停止させられてしまった。
靄がひとたび身動きするたび、鼻をつまみたくなるようなひどい臭気があたりに振り撒かれる。死骸から漂う腐臭にも似たこの粘ついた匂いに、真幌は覚えがあった。
――邪気。これは紛れもない、邪気に侵された霊魂の匂いだ。
しかしその強烈さは、今までに真幌が浄めてきた邪気の比ではない。
足が竦んだ。
こんなにもおぞましい邪霊が、都には出没するというのか。
神官達の奮闘もむなしく、靄は新たな邪気を、浮遊する霊魂を取り込み、見る間に肥大していく。その中心に浮かぶのは、ぎょろりとした二つの目。
その禍々しい双眸は大きな瞬きを一つすると、周囲を取り巻く神官達をゆっくりと眺め回し――そして、最後に、呆然と佇む真幌をじっと凝視した。
瞬時に背筋を戦慄が駆け上る。
「祓え給い、浄め給え!」
真幌は弾かれたように大幣を構え、恐怖を打ち払うように叫んだ。
左、右、左と無我夢中で大幣を振る。
とっさに反応したのが功を奏したのか、本体から分散し、真幌目がけて突出してきた靄の勢いは途中で弱まった。しゅるしゅると鍋蓋の下でのたうつ湯気のような音を立て、宙でしばらく渦巻いたかと思うと、小さな塊は巨大な目のもとへと戻っていく。
たったの、一撃。
たったの一度、攻撃を受けただけだ。
だがそれだけで、真幌が悟るのには充分だった。
あれは到底、真幌の手に負えるような相手ではない。
あの邪霊を前にして、真幌の力は塵埃も同然、立ち向かうにはあまりにも微小すぎるのだ。
浅葱袴、紫袴、銀袴、今やそこにはさまざまな階級の神官が集い、総力を尽くしていた。しかしそれでもなお、真幌達の抵抗は火に油を注いでいるようなものなのではないかと錯覚してしまうほどに、邪霊の勢いは増すばかり。鎮まる気配など、まったく見られなかった。
(このままでは、都は……!)
絶えることなく発せられる圧に、額から冷たい汗が噴き出す。睫毛に触れたその雫を払おうと、真幌は邪霊から目をそらし、素早く首を振った――
そうして一瞬だけ見せた隙が、いけなかった。
「あっ……!?」
再び邪霊の方へと視線を向けた真幌の前にあったのは、靄から突き出された黒い腕。
もうすでに、抵抗が叶うような距離ではなかった。邪霊の手のひらの漆黒が迫り、視界が黒一色に支配される。
殺される、と思った。
邪霊に襲われた人間がどのような死に方をするのかを、真幌はよく知っている。どす黒い穢れに身体中を覆い尽くされ、喰らい尽くされ、苦しみのうちに息絶えるのだ。
時が止まったような感覚。
目を閉じることも、息をすることさえもできなかった。
真幌の脳裏に、無惨に命を落とす自分自身の姿が浮かび――
突然、目の前が真っ白に染まった。
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