2.邂逅

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「…………?」  何が起こったのか、わからなかった。  やや遅れて、ぱんっ、と何かが弾けたような音が耳をつんざく。やがて眼前に広がっていた白が宵闇に溶けると、そこにあったのは細い銀の光にまといつかれ、痙攣(けいれん)する邪霊の腕だった。  その瞬間、背後から聞こえたのは、 「――邪魔だ。退け、能無しども」  それは、危機に瀕した状況にはまったくもって相応しくない、恐ろしいまでに落ち着きと余裕を湛えた声だった。  さして声量があったわけではないのに、清冽な響きを持ったその声は、喧騒に満ちたその場に不思議なほどよく通る。  真幌は急いで横にどけながら声の聞こえた方へと振り返り、すぐ真横を通り過ぎていくその男の姿を目の当たりにした。  術師とわかる装いをした彼の年の頃は、真幌より幾つか上であるだろうか。すらりとした背格好に、凛然とした表情を湛えた端正な面差し。  そして、  ――白。  すぐさまその単語が頭に浮かんだのは、まるで雪原から切り出されたかのように、彼の容貌のほとんどがその色で占められていたからだ。  その髪は周囲に灯る提灯の光を吸い、赤みがかった白銀に艶めいている。  まとう長衣も白を基調としたもので、だからこそ、夕空を眼窩(がんか)に閉じ込めたかのような青紫の瞳と、片手にはめた黒の手袋が余計に目立って見えた。  ぴしっぴしっ、とまた、あの空気の裂けるような音。  そこでようやく、真幌は声の主の右手に目が吸い寄せられる。  手袋に覆われていないその指先は、明滅する光を帯びていた。それと似たような光を、どこかで目にしたことがなかったかと真幌は考え、そして思考は、ある一つの事象辿(たど)り着く。  野分(のわき)が襲い来る梅雨の季節。墨を落としたかのように黒ずんだ雲間、轟音とともに(ひらめ)く稲妻。  はっとして真幌は、再び邪霊のいる方へと視線を向けた。寄り集まった靄の形をした邪霊はまだなお光を帯び、苦しげに身体を震わせている。  間違いない。  この人は、雷を操るのだ。  そしてその稲妻で、真幌が邪霊に襲われるのを寸前で防いでくれたのだろう。  真幌の至った結論が正しいことを示すように、男は左手を覆う手袋をも外しながら、不穏さを含んだ声音で告げた。 「荒ぶる神よ、苦しいか。俺は天の光を授けられし者。貴様をその永劫(えいごう)の苦痛より解き放ちたいがために来たのだ」  その言葉を解したのだろうか、靄は陽炎のように大きく揺らめいたかと思うと、腐臭のする風を男の方へと送ってきた。  彼から少し離れて後ろに立っていた真幌もまた、その風をじかに浴びることになり、鼻腔にまで迫ってきた穢れの臭気に顔を歪める。  しかし間近にそれを浴びせられたはずの男に、たじろぐ様子はまったくなく。稲妻を受けて初めて弱った様子を見せた邪霊を、彼は鋭い眼差しで射抜く。  雨の音だけがしめやかに響く、沈黙。  その間、真幌も、周囲にいた神官達も、固唾(かたず)を呑んだまま、その場に縫い止められたように動けない。否、動けなかったのだ。男と邪霊の間に張り詰める気迫は、それほどのものだった。  やがて邪霊は、その二つの目を閉じ、欄干から橋の上へと降り立った。  そうして、先ほど真幌にしたように、輪郭のおぼろげな黒い腕を男の方へと伸ばす。そこに、彼を脅かそうとするような意思は微塵も見られなかった。縋るように、(こいねが)うように、巨大な手のひらが彼の身体を包み込む。  そこに言葉のやり取りは一切ない。  だが、男は確かに、穢れに侵された魂の声を聞いたのだろう。 「――いいだろう。その魂をさらけ出せ。穢れ、歪み、もはやこの世の害悪となり果てた貴様らを、(くら)ノ国へと送ってやる」  それは非情で、冷酷で、情け容赦などない宣言だった。  そしてついに、その瞬間は訪れた。  靄の中心に、この世の闇をすべて凝縮したかのような、黒く淀んだ塊が形成される。それはまもなく靄から分離され、男の前へと浮遊していく。それが穢れた霊魂の集合体なのだと理解するのに、そう時間はかからなかった。  彼はその球体を前に、陰鬱な笑みを浮かべながら手をかざし――  心臓をも突き破りそうなほどの轟音とともに、光の刃が爆ぜ散った。
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