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それから、どれほどの時が経っただろうか。
光が収束し、あたりに宵闇と、霧雨がもたらす静寂が戻ってくる。
橋の上では、神官達が穢れで黒く染まった大幣を手に持ったまま立っており、光が散る前とほとんど変化のない光景から、真幌は時がわずかにしか過ぎていないことを知った。
ただ大きな違いがあるとするならば、先ほどまで禍々しい圧を発し、欄干の上から人々を睥睨していた邪霊の姿が跡形もなく消え失せていること。
そして、すでにその場からは、あの白い長衣の男が見当たらなくなっている、ということだった。
冷たい雨の雫が旋毛を叩く。
我に返り、慌てて周囲を見回した。
しかしその場には、憔悴し切った様子の神官がいるばかり。
真幌は逡巡の末、一番近くにいた浅葱袴の神官に声をかけた。
「あの、お疲れのところ申し訳ないのですが、お尋ねしたいことがあるのです。あのお方は……邪霊を浄めたあのお方は、もう帰ってしまわれたのでしょうか」
「は? あのお方って……まさか、千景のことか?」
「……千景。先ほどのお方は、千景さんというのですね」
そこで、真幌の意図をだいたい察し取ったらしい。
若い神官は大きな嘆息を零す。
「あぁ、その様子だと、あんたはここへは修学に来たって口か。それに、あんたさっき、あの邪霊に殺されかけて、けれどあいつが来て命拾いしていたものな。礼をする気でいたんなら、あの悪鬼にそんなものは必要ない。やめとくのをおすすめするぜ。そもそも、関わり合いにならない方が身のためだ」
首を傾げ、真幌は問い返した。
「関わらない方がよい……? それに、悪鬼というのは」
「大社が牛耳るここらで頭角を出す術師ってのは、腕は確かだが怪しい奴も多くてな。あいつはその筆頭も筆頭。半年くらい前にふらっと現れたかと思ったら、大社に仕えてる俺らが手こずるような邪霊も、雷の術で綺麗さっぱり祓っちまうんだ。……あの力、かなりやばい神と取引をして手に入れたんじゃないかって、もっぱらの噂だぜ。あぁ、おっかねぇ、鳥肌立ってきた。悪鬼の話なんてするもんじゃねぇな」
ちょうど誰かに呼ばれたらしい。
神官は橋の欄干の方へと去っていった。
雷で邪気を祓う、謎めいた術師――千景。
後に残された真幌は神官の言葉が気にかかりつつも、あの白の長衣を捜してしまう。
「――――」
その時、遠くで鳴る鈴の音のような響きが耳を掠め、真幌は驚いて目を見開いた。
しかしあたりには音の源らしい物は見当たらなかった。近くにいる神官達も、先ほどと変わらず儀式の後始末や、穢れを浴びた仲間の介抱にいそしんでいる。
気のせいだったのだろうか。
怪訝に思いながらも、そう結論づけようとした時、まるで真幌を呼び止めようとするかのように、同じ音が再び聞こえた。
「この音……いったい、どこから」
真幌は音の出所を探すため、その場を離れて歩き出した。
橋を進み、対岸に出てもなお、音は真幌を呼ぶように鳴り続ける。
路地を外れ、慎重に足元を確かめながらぬかるんだ土手を下り、河原へ。
その薄暗い川岸でようやく、真幌は音の正体を見て取った。
「あなたは……」
それは、弱り果て、すでにほとんどの力を失った霊魂だった。
幼い少年の姿をし、周囲にかすかな靄を帯びたその霊魂は、懇願するような瞳で真幌をじっと見つめてくるのだ。
「――――」
再び、鈴の音が鳴る。
今度は、耳の奥底にまで届くような、はっきりとした音だった。
真幌は頷き、少年の魂に近づいた。
恐がらないで、心配しないで。
今にも泣き出しそうに唇を噛みしめる少年を少しでも安心させたくて、真幌は優しく微笑みかける。少年の背丈に合わせて屈み、その小さな頭をそっと撫ぜた。
「あなたが私を呼んでいたのですね。一人だけ、取り残されてしまったから」
この少年の霊魂はおそらく、先ほどの邪気に取り込まれ、邪霊の一部と成していたのだろう。ほとんどの霊魂は千景によって穢れを祓われ、死した霊魂が向かう昏ノ国へと導かれたが、どういうわけか、この少年の霊魂だけがここに残ってしまった。
どうやら、真幌の読みは当たっていたらしい。
少年は小さな手を、真幌の方へと伸ばしてくる。
その手を、真幌はそっと両手で包み込んだ。
「……ずっと、一人で。寂しかったのですね。でも、もう大丈夫ですよ。あなたをここに一人きりにはしません。私が、あなたを行くべき場所へ――昏ノ国へと、送ります」
そうして真幌はもう一度、少年を安心させたくて微笑むと、小袖の懐に手を差し入れた。
取り出したのは、一枚の形代――人の形を象った小さな白紙。
形代は、霊魂を昏ノ国へと送る際、穢れを祓うために使われる道具だ。
真幌は少年の前に形代を差し出し、そぅっと手を離した。
冴え冴えとした月明かりを浴びた形代はひとりでに浮かび上がり、少年のもとへと飛んでいく。
真幌はそれを見届けると、すっと息を吸い、静かな声で告げた。
迷える魂を還るべき場所へ、昏ノ国へと送るための儀――送魂の儀を始めるためだ。
「あなたの穢れをその形代へと移します。形代に触れたら目を閉じて、しばらくそのままでいてください」
少年は、言われた通りに形代に指先を触れ、目を閉じた。
真幌は形代に意識を集中し、唱え始める。
「無垢なる人形よ。この魂に代わり穢れをまとい、災いを収めて、祈依の流れを浴びるべし」
形代に変化が起こり始めたのは、その直後。
いつの間にか晴れ間を覗かせた空、そこから降り注ぐ月光を透かした真白な形代は、少年の霊魂に染みついていた穢れを吸い、見る間に黒ずんでいったのだ。
すべての穢れを受けたのだろう。
形代はやがて少年のもとを離れ、真幌の手の中に戻ってくる。
小さな和紙の袋の中に形代を大事にしまい込んだ真幌は、神楽鈴を握り、それを頭上に掲げた。りん、りりん、と規則的に振り鳴らされる鈴の音は、やがて一つの音律を成し、昏ノ国への道しるべとなる。
「神ながら守り給い、導き給え。――今ならば、見えるでしょう? あなたの前に開けた道が、すべての魂の還る地へ、昏ノ国へと誘ってくれます。さぁ、行きなさい。もう迷わずに、振り返らずに」
すると、透けていた少年の身体は光をまとい、少しずつ薄れていった。
消える間際、真幌に向けられた少年の表情は、先ほどとは打って変わって安らかだった。はにかむ少年に、真幌は笑みを返し――
そして少年は、宵闇に溶けるようにして、消えていった。
「……これで、もう大丈夫ですね」
少年は、昏ノ国へと旅立てた。
もう一人きり、闇の中を迷うことはないのだ。
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