2.邂逅

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 ほっと胸を撫で下ろした真幌は神楽鈴を下ろし、再び(ふところ)へと手を入れた。送魂の儀だけではない。真幌にはもう一つ、執り行わなければならない儀式があったからだ。  和紙の袋の中からひらりと飛び出してくる、穢れで黒く染まった形代。  ここが都、それも、川のすぐ近くでよかったと真幌は思う。  穢れを浴びた形代は、ただちに浄めなければならない。そのための儀式はいくつか種類があるが、ここが川辺――天涛大神(あめなみのおおかみ)の神体、すべての穢れを祓うと言われる祈依川のそばであるなら、執るべき方法はただ一つだ。  真幌はさらに川の近くに寄ってしゃがみ込むと、形代を乗せた両手のひらを、ゆるやかな川の流れに浸した。 「祓え給い、清め給え」  手のひらの中でゆらゆら揺れる形代を見つめながら、真幌は凛とした声で繰り返し唱える。清らかな水流が形代を包み、静かに流れていったのは、それからまもなくのことだった。  川に抱かれ、月の光を受けながら流れていく形代が見えなくなるまで、真幌は川辺に立っていた。この美しき磨見ノ国を生み出した、母なる大河――祈依川。その流れが、穢れを祓ってくれることを祈り、感謝を捧げるためだ。  すべてを終え、橋の上へと戻った頃には、あれほどたくさん集まっていた神官は一人も見当たらなくなっていた。その代わりに、もう安全であるとの触れが出たのだろう――提灯を片手に歩く夜警や、連れ立って歩く人々の姿がちらほらと見受けられた。その場所にはすでに、平穏が戻ってきていたのだ。  都に来て早々、大変な夜だった。  けれど、もう案じる必要はない。  安堵の息をついた真幌は、宿屋街へ戻るため、橋の上へと足を踏み出した。  橋の中ほどに差し掛かったところで、すれ違いざま、真幌の姿を認めた夜警が、(ねぎら)いの言葉をかけてくれた。 「おう、巫女さんか。おつかれさん。あんたも、ここらで出た邪気を祓ってくれたんだな」 「ええ。このあたりはもう、大丈夫でしょう。けれど夜は、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の息づく時。どうか、くれぐれもお気をつけて」 「ああ、ありがとよ。あんたらがいてくれるから、俺も安心して仕事ができるってこった。あんたも、気をつけて帰るんだぞ」  橋を渡っていく夜警に頭を下げ――その瞬間、真幌の視界の隅に、何かがよぎった。  夜警の提灯が照らす橋の木板、そこに何かが落ちている。 「あれは」  提灯の灯が遠ざかる前に、真幌はすばやくその場に駆け寄った。  しゃがみ込み、暗闇に目を凝らして、真幌はそれを拾い上げる。  それは布でできた、長方形の平たい入れ物だった。巫女であり、日頃から邪気を祓う儀式に関わる真幌には、それが何の道具であるかにまもなく合点(がてん)がいく。 「これは……札入れ。誰か、神官の方が落としていったのでしょうか」  落としたことに気づかぬままに持ち主が去ってから、だいぶ時間が経つのだろうか。その札入れは雨水を吸い、全体が濡れそぼっていた。中に収められているであろう術符も、泥水で湿ったせいで、もはや力を失っていることだろう。だが、だからといって、その落とし物を放っておく気にはなれなかった。  どこかに名前や、神官の階級を示す刺繍(ししゅう)が入っていないかと、札入れを月明かりの下に(さら)す。裏も表も、内側も確認したが、特に持ち主の情報が知れるようなものはなかった。  しかし、次の瞬間。  真幌のすぐ横を通行人が何人か過ぎていき、彼らの持つ提灯が札入れを照らし出した時、真幌はふと口元を押さえ、呟く。 「この色……」  とっさに脳裏をよぎったのは、あの千景という名の術師の、青紫色の瞳だった。  暴れ狂う邪霊をたった一人で浄め、そして、危機に瀕した真幌を雷の力で救ってくれた、千景の――  真幌はしばし考え込んでから、橋をぐるりと見渡した。  邪霊と対峙していた時の状況を思い出し、その時の光景と、今、見えている橋の様子とを重ね合わせる。  千景が邪霊と向き合う際に立っていた場所と、札入れのあった場所は……一致する。 「まさか、この札入れは千景さんの――?」  橋下を流れる川のさざ波が、夜の静寂を揺らす。  真幌の問いに答える者は、誰もいなかった。
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