3.巫女と悪鬼

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3.巫女と悪鬼

 ぱちり、と何か小さなものが爆ぜる音が耳を(かす)める。  (すみ)を垂らした(すずり)に筆を浸し、麻紙(あさがみ)に文言の続きを記そうとしていた千景は、その手を止めて視線をわずかに上向けた。  見れば、くるくると宙に螺旋(らせん)を描きながら、書卓に何か半透明のものが落下する。そこで千景は、先ほどから行灯(あんどん)の周囲を羽虫が飛び回っていたことに思い当たった。  長い冬は終わりを告げ、都はじきに春の陽気に覆われる。  羽虫は細かな手足をばたつかせ、書卓の上をもがいていたが、まもなくぱたりと動かなくなった。この羽虫もまた、春を待ち()びていただろうに。だが、何かの拍子に、千景の身に触れてしまったその時が、運の尽きだった。  千景に直接触れた命ある者は、皆。  雷に焼かれて怪我をするか、ひどければ死に至ることになるのだから。  ふと脳裏をよぎるのは、過去の光景。  今しがた絶命した羽虫と同じように、思いがけず雷光を浴び、苦悶(くもん)する人々の顔だった。  皆、つまらぬ嗜虐(しぎゃく)心を起こして千景に触れたばかりに、災難に遭った者達だ。過去の記憶から顔を覗かせた彼らに対し、千景は内心で(あざけ)り、冷笑する。ただ、遠目に忌んでいればよかったものを。愚かな、と。  そうして息を一つつき、書卓から羽虫の死骸を払いのけようと手をやって、 「きゃあああああっ!」  悲鳴とともに、水飛沫が地面に飛散する音がすぐ外から聞こえたのは、ちょうどその時。  千景はつと、外と室内とを隔てる障子戸へと目を遣った。  若い娘の、甲高い悲鳴。  声の主に心当たりはない。  しばらくの間、考えた。  直接に手を下してやらねばならないような、厄介(やっかい)な気配は感じない。  おそらく、間抜けな盗人がへまをして転んだかしたのだろう。  だが、よりにもよって、千景の住居を標的に選ぶとは、よほどの恐いもの知らずか愚か者か。池に落ちた時点で後者であろうことは、容易に想像がついた。  やがて千景は結論づけた。  放っておけばいい。  どれほど阿呆であっても、ここまで派手に存在を示しておいて、まだなお盗みを働こうとするような盗人がいるとは思えない。  そうして千景は浮かしかけた腰を戻し、池の音が静まるのを待つことにして――           *  苦しい。冷たい。  息が、できない。  真幌は氷のように冷え切った水中で、沈むまいと必死にもがいていた。  不注意で落ちてしまった池は、思ったよりもずっと深く、そしてずっと冷たかった。水面に顔を突き出し、どうにか息継ぎをしようと試みるが、頭はすぐに水面下に沈んでしまう。  池の水は徐々に、しかし確実に真幌の体温を奪っていった。かじかんだ手足は次第に動かなくなり、意識さえ朦朧(もうろう)としてくる。 (だめ……、です)  ここで気を失ってはいけない。  しかし、そう思うのとは裏腹に、視界はどんどん黒く塗りつぶされていく。 (私……)  私は、こんなところで死ぬのだろうか。  そう絶望しかけた瞬間、真幌の耳の奥によみがえったのは和音と琴杷の声だった。  二人とも、都へ旅立つ真幌に向けて、あれほど念を押していたではないか。  余計なことは考えなくていい。  とにかく、行って帰ることだけに集中しなさい、と。 (和音、さん……琴杷さん……)  ごめんなさい。  私、もう帰れないかもしれない――  心の中で謝罪の言葉を繰り返す。  まさか、池に落ちて命の危機に(おちい)る羽目になるだなんて思いもしなかった。あぁ、さっき、今年も織戸山で春を迎えたいと願ったばかりだったのに。  本当に、ごめんなさい――もうこれで何度目になるか、決して届くことのない謝罪をした時だった。 「盗みに入る家を見誤ったな。その様子では天罰が下ったようで何よりだ」  それは呆れや哀れみといった段階を通り越し、心底からの軽蔑(けいべつ)のこもった声だった。  池の水面よりはるか高みから発せられるその声は、(まぎ)れもなく、この家の主のもので。 「たすっ――」  助けて。  真幌はたまらずそう叫ぼうとした。  しかし、すかさず口内に水が浸入し、声はごぽりと音を立てて泡となってしまう。  とはいえ、真幌の決死の訴えは、充分に千景に伝わったらしい。  相も変わらず(あざけ)るように、彼はゆったり問いかけてくる。 「ほう。娘、助けてほしいか? だが俺は慈善家でも、盗人をただで見逃すような善人でもないからな。相応の礼を返せるというのなら救ってやらないこともないが」 「…………!」  無理に息継ぎをしようとしたせいか、水は(かたまり)となって口に入り込み、喉の奥を押し開きながら侵入してくる。視界は激しく明滅し、ぼやけて見えていた家主の姿さえ見失ってしまいそうになった。  限界。  その二文字が頭の中を駆け巡り、真幌の意識はついに闇に塗り込められていく。  そうして、弱々しい咳を一つしたきり、真幌は水底に沈みかけて――  泡立つ水面越しに、不愉快そうな舌打ちが降ってきたのは、その時だった。
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