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少女は瞠目し、声の主を見上げた。
その弾みに、目の縁にたまっていた水滴がほろりと零れ落ちる。
涙の膜が瞳を覆っているせいで、視界は石を投じられた水面のようにぐにゃりと歪んでいる。しかも、空にぽっかりと昇った月の明かりが逆光になっているせいで、その人物の姿は判然としない。
二の句が継げずただただ呆然としていた少女をしばらく眺めているうちに、目の前の何者かはだいたいの事情を察し取ったらしかった。
「なるほど。捨てられた、というわけか」
夜気を震わすのは、滑らかで深みのある、落ち着き払った声。
想像していた人さらいの声とは、ずいぶん違った声色だった。
心の奥底に柔らかく溶け込んでいくような、そんな響き。
恐ろしさは、不思議と感じなかった。
「……身勝手な親だ」
だからかもしれない。素性の知れないその男が発した言葉に、とっさに語気荒く言い返してしまったのは。
「……っ、母さんと、父さんを……悪く、言わないで」
喉の奥から絞り出した声は弱々しく、掠れていた。
だが相手の耳には届いたようだ。ほんの少しだけ、息を呑む音がする。
ややあって、男は鼻で笑いながら言ってきた。
「おかしな考えをしている。お前は、非情にもお前を捨て、裏切った者達を庇うというのか」
「母さんと父さんは……悪くなんか、ないっ……。みんなのために……私が、一番、お姉ちゃんだから、だからっ……」
息が詰まった。
もう、泣きたくなんかないのに。
容赦のない冷徹な言葉に、もっと堂々と反論したいのに。
少女は唇を引き結んだ。
その甲斐もなく、激しい嗚咽が漏れ、ぽろぽろと涙が頬を伝う。
だが、その時だった――それまで長躯の影によって遮られていた月の光が、少女の正面を冴え冴えと明るく照らし出したのは。
水底のように冷え切った夜に灯る、満月。
その光はどこまでも穏やかで、地上に生きる者すべてを包み込むようで。
そんなことを思ったのも束の間。
少女の前に屈み込んだ男の、ほんの鼻先まで迫った瞳に目を奪われた。
湖面のように揺らいで見える双眸の色合いは、暗がりにいるせいでよくわからない。
しかしなぜだか、その瞳を見ていると胸がぎゅっと締めつけられるような気がした。
涙に濡れた少女の頬に触れようとした白い指先は、けれどその寸前で、何か不可視の力に弾かれたかのようにぴたりと動かなくなる。
男はわずかに表情を歪めた後、しばらくして、懐から小さな布切れを取り出した。
「……愚かな娘」
まるで、泣き止まぬ赤子をあやすかのように。
布切れで頬を拭ってくれるその手つきは、驚くほどに優しい。
それなのに、ぽつりと呟かれたのは、そんな冷淡な一言で。
「お前は、お前をないがしろにする者達が憎くはないのか。なぜ、自分だけが見捨てられなければならなかったのかと。なぜ、こうして自分を置き去りにするのかと」
問われ、少女はすぐさま口を開こうとした。けれど、言葉は喉につっかえ、代わりに唇から漏れ出たのは震えた呼気だけだ。
どうして。
どうして、私が。私だけが。
両親がまったく憎くないかと言えば――それは、きっと違う。
だけど。
それよりももっと強く、確かな思いが、少女の心の奥底には存在していた。
「……たく、ないから……」
「……」
真っ直ぐに少女の瞳を見つめ返してくる彼に向かって、もう一度声を奮い立たせて、言う。
「寂しいのは、嫌……独りは、嫌……。でも、私は……それよりも、……母さん達が辛い顔をしてる方が、ずっと嫌……そんな顔は、見たくない……だから。だから、私が、我慢するの」
冷たい雫が再び目尻から溢れ出る。
少女の瞳から次々と流れるその涙を、男は黙って拭ってくれていた。
やがてふっと笑い、彼は言う。
「そうか。悪いが、俺にはまったく理解できない考え方だな。俺とお前とでは相容れん。――微塵も、な」
その声音には、どこか寂寥とした響きがあった。
少女が食い入るような眼差しを向けてくるのを避けるかのように、男は視線をそらす。
そして布切れをしまうと、すっと立ち上がった。
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