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「……死体の処理が面倒だ。他人の家の池で死ぬな、阿呆が」
まもなくそばで飛沫が上がったかと思うと、何か大きな力が、真幌を水底から空気のあるところへと引っ張り上げた。
ようやく水中から逃れた真幌は、たまらなくなって咳き込んでいたが、ややあって自分が池の中、水底に足をつけて立つことができているのに気づく。
「……あれ?」
深くない。
というより、浅い。
腰のあたりまでしかない水深に真幌が呆然としていると、真横で波の立つ音が聞こえた。はっとしてそちらに目を向けると、今まさに、千景が池から地面へと上がるところである。
とにかくお礼と、それから謝罪を――そうして息を吸い込みかけた真幌が、思いがけず怯んでしまったほどには、その顔は大層な不機嫌を示していた。
「あ……あの、えっと、その、これは」
真幌は震え上がりながらも必死に口をぱくぱくさせたが、混乱のあまりか、言葉をうまく紡ぐことができない。
「……盗人」
「はいっ」
そもそも盗人ではない。
いや、誤解を解く前に、まずはお礼と謝罪をしなければならないというのに。その低い声に滲む怒気と気迫に、真幌はぴしっと背筋を正し、つい歯切れよく返事をしてしまう。
そんな真幌の有様に、気を削がれたのだろうか。
千景は嘆息を零し、真幌に背を向けた。
「命が惜しいなら、今すぐに失せろ。その鳥頭に雷が落ちる前にな」
「ひっ」
この場合、雷が落ちるというのは比喩表現でも何でもないのだろう。彼はそれを実行するだけの力を有しているのだから。
言われた通りに逃げ帰った方がよいのではと一瞬頭をよぎったが、それでも真幌は、ここに来た目的を忘れてはいなかった。
真幌は急いで池から飛び出すと、さっさと縁側の方へと歩いていく千景のもとへと駆け出した。
ここでめげてしまってはだめだ。
そう、自分を奮い立たせて。
「ま、待ってください!」
指先はすっかりかじかんで、感覚が失われていた。
それでも必死に手を伸ばし――
真幌の手は、千景の手をしっかりと掴んで引き止めた。
「はぁ、はぁ……待って……、わ……私、は」
息が上がり、寒さで歯の根が震えるせいで、いつものように話せない。
真幌は空いた方の手で膝を押さえ、肩でぜいぜい荒い呼吸を繰り返していた。
だから、気づかなかったのだ。
真幌と、そして真幌にしっかりと捕まえられた手を、千景が食い入るように見つめていたことに。
「貴様、なぜ……」
「ああ、あ、あの、私は、ここに……ぬ、ぬすっ、盗みに来た、わけでは……、っくしゅん!」
冷えた水を被った身体に、夕暮れ時の外気はあまりに寒すぎた。
全身の肌が粟立ち、鼻の奥がむずむずし始める。
(うぅ、どうしたら……こんな時に、くしゃみが止まらなくなるなんて!)
まさに、踏んだり蹴ったりだ。
これでは、礼を述べることも申し開きを行うことも不可能である。
「っくしゅん、ぃっくしゅん! 千景さ……くしゅっ」
頭上に深いため息が降ってきたのは、その時だった。
「もういい。耳障りだ、話すな」
この上ないほどの侮蔑が表れた声。
真幌は、絶望した。
観念し、両手で頭を抱え、目を瞑って来たるべき衝撃に備える。
あぁ、やっぱり私は、ここで死ぬのだ。
昨晩の神官の言葉に、もっと耳を傾けていれば――
「…………?」
そろそろ脳天を雷が貫いてもおかしくない頃合いだった。
しかし、予想していたような痛みも爆音も、一向に襲いかかってはこない。
明らかに、おかしい。
そう思ってこわごわと目を開き、顔を上げると、
「貴様、そこで何をしている?」
「へっ?」
すでに目の前に千景の姿はなかった。彼はすでに真幌から離れて濡れ縁に上がっており、障子戸に手をかけている。
そしてぽかんと口を開ける真幌に、次の瞬間かけられたのは、思いもしなかった言葉だった。
「……さっさと上がって火に当たれ。どうやら貴様にも、貴様なりの言い分があるらしいからな」
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