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(あぁ、温かい……)
囲炉裏端にちょこんと座り、真幌は薪の上に灯る炎を見つめていた。衣服や髪は今なおずぶ濡れだが、こうして火の傍にいるだけでも十分に温かい。
ぱちぱちと爆ぜる炎に手をかざしながら、ほぅっと安堵の息をつく。
そうして人心地ついたところで、真幌は改めて室内をそっと見渡した。
夜目にも立派な外観をしていると感じた邸宅は、室内に入ってもその印象は変わらなかった。
囲炉裏を中心に広がる居間は、足を踏み入れた瞬間に深呼吸をしたくなるほどに広々としている。
棚には書物のほか、木札や龍笛、術符や形代を作成するための紙などといった、術式に関わる物が整然と並んでいた。見栄えをよくするための装飾品といった類のものは一切見受けられず、その様は家主の性格を如実に表しているように見える。
そうして部屋の調度を眺め終えると、視線は自然、窓辺の書卓に座り、真幌に背を向け書き物をしている家主に行きついた。
千景はあの後、早々に着替えを済ませると、炉端に近寄ることもなく書卓の前に座った。彼が淡々と書いているのは、どうやら術符のようだった。彼の背後に敷かれた布の上には、墨を乾燥させるために、書き終えた術符が丁寧に並べられている。ますますあの青紫色の札入れは千景の物だったのだという確信が強まる。あの札入れには、使い物にならなくなった術符が十数枚、収められていたのだ。
くしゃみはすでに止まり、身体の震えも収まっていた。
もう十分に暖を取らせてもらったのだ、そろそろ話を切り出さなくては。
口を開きかけた真幌だったが、どうやら千景もまた、同じように考えていたらしい。真幌が声を出すより早く、千景は書卓に向かったまま口火を切った。
「それで、巫女。貴様は何用あってここへ来た。大社からの言伝を預かっているわけでもないのだろう」
室内には、火の粉の弾ける音、それから、千景の持つ筆が硯を撫ぜる音だけが静かに響く。
千景と真幌、どちらかが口を閉ざせば、この場所はたちまち沈黙が支配する。しかしなぜだろうか、室内には、そこに座っているだけでどこか心が落ち着くような、不思議な穏やかさが漂っていた。
真幌は居住まいを正すと、傍らに置いた風呂敷包みを一瞥して、答えた。
「申し遅れてしまいましたが、私は真幌――道の果て、織戸山の神社の者です。今日は千景さんにお礼を述べるため、それから、見ていただきたい物があって、参りました。ですから、その……決して、盗みを働こうとしていたわけではないのです。盗人と疑われても詮ないことをしでかしてしまったことは、お詫び申し上げます」
千景が一切真幌の姿を見ていないことはわかっていたが、それでも床に手をつき、深々と頭を垂れる。昨夜と今日、二度も命を救われたあげく、こうして家で休ませてもらったのだ。本来なら、頭を下げるくらいでは済まされない場面である。
「詫びはいい加減聞き飽きた。これ以上聞いても、金にも腹の足しにもならん。時の無駄遣いだ。さっさと本来の用件を話せ」
案の定、千景の返答はにべもない。
しかし、暖を取って一息つけたせいなのか、千景のすげない態度に慣れたせいなのか、真幌は先ほどよりも、落ち着いて受け答えができるような気がしていた。
「はい。昨夜、私は北地区の橋での邪気祓いに出向いていて、危うく命に関わるほどの穢れを浴びるところでした。そこを、千景さんが助けてくださったのです。そのお礼を申し上げたかったのですが、気がついた時にはすでに、千景さんの姿が見えなくなっていたものですから」
すると、合点がいったらしい。術符を書き終え、それを布の上に置いた千景はようやく真幌の顔に目を遣り、言った。
「助けた……あぁ、貴様はよく見れば昨夜の、あの鈍くさい巫女か。あの程度の邪霊を相手にするのに不慣れとは、道の果てというのは都よりもずっと平穏であるらしいな」
(うぅ、鈍くさい……)
そんなふうに思われていたなんて。
和音にも、織戸山周辺の集落の人々にもよく言われる上、自覚もあるから事実には違いない。しかし、こうして知り合ったばかりの人にも指摘されるとなると、少しばかり心が凹んだ。
けれどすぐさま気持ちを切り替え、真幌は千景に向き直った。
胸に抱いている感謝の思いが少しでもはっきりと伝わるように、千景の青紫色の瞳を真っ直ぐに見据え、微笑み、誠心誠意に言葉を紡ぐ。
「改めて、お礼申し上げます。私が今、無事であるのは、ひとえに千景さんのおかげです。昨夜だけではありません、先ほども……。何度も窮地を助けてくださり、本当にありがとうございました」
再び頭を床につける。
場に流れたのは――沈黙。
筋の通らないことを言っているわけではない。
言葉を誤ったわけでもないはずだ。
それなのに、やがて返ってきたのは深い、深いため息だった。
「……もういい。そもそも昨夜は、あの邪霊に仕掛けた際に、ちょうど貴様が近くに居合わせたというだけのこと。今日とて、貴様を引き上げたのは、そうするよりほかなかったためだ。庭池で死なれれば後処理が煩わしい」
「で、ですが」
「貴様を思って俺が何かをしたというなら、思い上がりも甚だしい。それが理解できたのなら顔を起こせ。鬱陶しくてかなわんからな」
そう言ったきり、千景は再び書卓の方を向き、作業の続きを始めてしまう。
真幌は、その背をしばらく呆気に取られて見つめていたが――ややあって、ふっと笑みを漏らさずにはいられなかった。
「……貴様、何を笑っている?」
どうやら、聞こえてしまったらしい。
真幌は慌てて衣の袖で口元を押さえた。
「も、申し訳ありません、何でもないのです。あっ、それから、見ていただきたい物というのが――」
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