3.巫女と悪鬼

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「また貴様か。何の用だ」 「いえ、用があったわけではないのです。ただ、千景さんの姿が見えたので、ご挨拶をと」  返ってきた言葉に、千景は眉をひそめた。  まったくもって、理解できない答えだ。  特に用があるわけでもないのに、言葉を交わそうとする意味がわからない。こうして面と向かうたび嫌悪の表情を示しているのに、それでもなお、挨拶といって声をかけてくる真幌の思考が、不可思議でならなかった。  嘆息を零しながら、千景は言った。 「……真幌」  思えば、互いに見知ってから数日が経ち、すでに何度か顔を合わせていたというのに、この娘の名を口に出して呼んだことはこれまでになかったような気がした。  隣に立つ娘もどうやら同じことを思ったらしい。  いつもならぽんぽんと言葉を返してくるのに、今は口を小さく開いた間抜けな表情を浮かべたまま、千景をじっと見つめてくる。  そうして円く見開いた瞳を幾度か瞬いたかと思うと、真幌はなぜだか喜色満面になり、花開くように笑って言うのだった。 「ふふ。千景さんに初めて名を呼んでもらえました。覚えていてくださって、とても嬉しいです」 「どうでもいいが、貴様、おかしな娘だとよく言われないか。俺には、名を呼ばれるぐらいのことでそこまで喜色を示す意味がわからん」  すると真幌は、首を傾げて思案げな表情を浮かべる。 「おかしな娘、ですか? うーん、そうですね……馬鹿とか、愚かだとかは言われることが多いかもしれませんね、だいたい宮司の和音さんが言うんですけれど。でも、名を呼ばれて嬉しくなるのは、そんなにおかしなことではないと思います。だって、嬉しいじゃないですか」 「……なるほど。その宮司の言う通り、貴様が馬鹿だということは理解できたな」 「えぇっ、なんでですか」  真幌の姿はその後も、昼下がり、用あって大通りへと繰り出す日にはよく見かけた。  ある時は腰の曲がった老人を背負って坂を上り、またある時には、やんちゃ盛りの子どもらに付き合い、隠れん坊の鬼の役を引き受けていた。  かと思えば、逃げ出した番犬を追って飼い主の代わりに通りを駆けずり回り、食事処で人手が足りないとなれば、給金が出るわけでもないのに進んで手伝いを買って出る。  呆れるほどにお人好しだ。  そしてお人好しは勿論、一人で泣く幼子を放ってはおかない。  その存在に気づくなり駆け寄っていき、親とはぐれたと聞けば、幼子の手を引きその親を捜していた。  そして夕刻。  用事を済ませ、帰途についた千景は、周囲の人々から道案内を受けるばかりか、挙句、手を引いていたはずの幼子に逆に手を引っ張られている真幌を見かけた。これほどまでに心底から他人を馬鹿と思った瞬間は、他にはなかった。  だが、一番驚かされたのは―― 「ほら。せっかくだ、これも持っていきな」  買い求めた食材と一緒に店主から手渡されたのは、どうやら収穫されたばかりらしい、菜花の束。  わけがわからず、千景は店主を見返す。  常ならば、とっとと立ち去ってくれと言わんばかりの(おび)えた表情をしていた中年の女が、その日は気まずそうにしながらも笑みを浮かべていた。 「この間、真幌って名の巫女さんと話してたら、あの子があんたの家でとんだへまをやらかしちまったっていう話題になってね。あんたは確かにとんでもない力の持ち主だが、鬼なんて呼ばれるような悪人じゃないって、何度も念を押して帰っていったのさ。……あんた、前からよく来てくれていただろ。なのに悪鬼だなんて呼んで、悪かったね。それは今までの、礼と詫びの気持ちだと思っておくれよ」  腕に抱えるほどの菜花の香りは爽やかに青く、甘かった。
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