3.巫女と悪鬼

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「あっ、千景さーん! ちょうどいいところに。お時間はありますかー? ちょっと、こちらに来ていただきたいんですけれどー」  もはや聞き慣れた声で名を呼ばれたのは、日が傾きかけ、通りの空気がほのかな金色に染まる頃のことだった。  そこは街路の突き当たり、川沿いに営む茅葺(かやぶ)き屋根の甘味処(かんみどころ)。  店の外には赤布のかかった縁台があり、その場所からは、客が土手の下を流れる祈依川の支流と、その流れの両脇に立ち並ぶ桜の木々を眺められるようになっていた。  日暮れ時であるためか、縁台に客は真幌一人。  縁台脇に設置された野点傘(のだてがさ)の下、真幌は千景に向けて手を振って、その存在を示してきた。  これだけ周囲に通るような声で名を呼ばれては無視を決め込むわけにもいかず、千景は仕方なしに縁台に寄った。 「耳障りだ、鬱陶(うっとう)しい。これだけ大声で呼ぶとは、よほど重要な用事なのだろうな?」  圧をかけてみるが真幌にはまるで無意味。  あっけらかんとした口調で、真幌は縁台上の皿の上に山と盛られたみたらし団子を指して言ってくる。 「この間お店を手伝った時のお礼にって、こんなにたくさんいただいたんです。ここのお団子、とっても美味しいんですよ。一人で食べるのがなんだかもったいなくって、そう思っていたら千景さんが歩いているのを見かけたので、つい声をかけてしまいました」 「ほう。想像した以上に些末(さまつ)な用事だったな。それならば、その辺の餓鬼(がき)どもにでも食わせれば事足りるだろう。くだらんな、俺は帰る」  言い捨て、(きびす)を返す。  背を向けてから、かすかに――ほんのかすかにだが、言葉を誤ったかという思いが胸の内を掠めた。  これはよく人々が、後悔と呼ぶものだろうか。  不慣れな感情には違いなく、千景はその扱いに戸惑いを覚える。  しかし、一見慎ましやかなようでいて、その実、主張すべきところはしっかりと主張してくる真幌のことだ。おそらく引き止められるだろうと思っていた。引き止められたら、その時には――  しかし予想した声が背を追ってくることはなかった。  いつもなら構わず立ち去るところだというのに、どうしたことか、やはり言葉が過ぎたかという思いが千景の足を鈍らせる。  そうしてついに、千景の歩みは完全に止まり、 「……千景さん?」  再び呼びかける声に、まるでその時を待っていたかのように振り返ってしまう。  しまった、と思った。  目が合うと、真幌は団子を口にしようとするのをやめた。  曇り空に開けた晴れ間から一気に日が差すように、晴れやかな笑みを向けてくる。 「あ、やっぱりお団子、食べたくなったんですね、よかったぁ……。どうぞ、こちらに座ってください」 「……言っておくが食べたくなったわけではない。貴様が一人(わび)しく団子を齧る光景が、見ているに忍びなかったからだ」 「それでは、私を気遣ってくださったのですね。ありがとうございます」  飴色に艶めく団子の並んだ皿を挟み、真幌の隣の席にしぶしぶ腰を下ろす。  千景が璃久扇に住むようになって、すでに半年ほど。  よく使う路ゆえに、ここに甘味処があることは知っていたが、来店し、注文をしたことは一度もなかった。このあたりはよく見知った場所であるのに、縁台から周囲を眺めてみると、その景色は初めて見たもののように新鮮に目に映る。  吹き寄せる夕風は穏やかで、草の葉の匂いをまとい始めていた。  頭上で揺れる桜の枝を見上げながら、真幌が感慨深げに呟く。 「見てください、あんなにつぼみが膨らんで……。桜が咲くのは、もうじきですね」  何気なしに、千景は真幌の視線の先を追った。  口に含んだ団子は柔らかく、しっとりとした葛餡(くずあん)の甘みがゆっくりと舌全体に広がっていく。 「千景さんは、桜、好きですか」 「好きか嫌いかなど、考えたこともない。ただ、春の訪れとともに咲く。数日もすればあっという間に散り果てる。それだけのものだろう」  無意味な問い。  たわいない話の延長。  それなのになぜ、問われるままに答えてしまっているのか。  千景は自分の感情が掴めなかった。 「そうでしたか。私は桜、好きですよ。毎年、散ってしまう前に、咲いている景色を目に焼きつけておくんです。こうして都に来るまでは山村から出たことがなかったので、私は山の桜しか知りませんが……旅の人が、都の桜景色も大層美しいと話していたんです。川沿いに桜が咲き、川面にその光景が映る様を見ていると、神々の国に迷い込んだような心地になるのだって」 「大仰な。そこが山だろうと都だろうと、桜は桜。大して変わりはしないだろう」 「そうでしょうか。まったく変わりないというわけではないと思いますよ。織戸山の奥にある桜は、近くに立つと、こうやって見上げても、さらに見上げても天辺(てっぺん)が見えないくらいに大きいんです。千景さんも目の前で見たら、きっととても驚くはずですよ」 「……ふん。そんなことでいちいち心を動かすものか。馬鹿馬鹿しい」 「あっ、言いましたね。絶対驚くに違いないんですから。今に見ていてくださいね」  くだらない会話。  無駄な時間。  そのはずなのに――無視を決め込めばいいだけのはずなのに、なぜ律儀に受け答えをし、この娘を調子づかせているのか。
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