3.巫女と悪鬼

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「おぉ、真幌。どうだ、うちのみたらし団子の味は……って、おい。そこにいるのは……」  振り返ればそこには、陽気な声音が一転、声を震わせ、顔を引きつらせている店主らしき男の姿があった。  だが、店主が今、千景の存在に肝を冷やしているのを知ってか知らずか、真幌は至って普通に返答をする。 「佐吉さん。はい、すごく美味しいです。佐吉さんのお店が繁盛するわけだなぁって。千景さんにも、ここのお菓子の美味しさをぜひとも伝えたかったものですから」 「あぁ、そうなのか。いや……うん」  明らかに歯切れが悪い。そのはずか、と千景は固まっている店主の姿を見て思う。店を手伝った礼にと巫女の娘にやった菓子が、よりにもよって悪鬼に食われているとは思いもしなかったことだろう。 「…………」  千景は黙したまま、立ち上がった。  これ以上空気が冷やしてまで、この場にいる意味はない。  しかしすぐさま、店主自身がそれを止めてくる。 「あっ、いや、すまん。別にあんたに帰ってほしいと思ったんじゃないんだ。巫女さんも、まわりから鬼と言われるような術師も、大事な客だ。うちの店に来てくれる奴を追い返すなんて、できるわけがねぇよ。ただ……あんたのその、力がな。つい、思い出しちまったのさ。昔、まだ小さかった(せがれ)を、鳴神(なるかみ)に奪われちまった時のことをな」 「鳴神……?」  どうやら真幌も初めて聞く話らしく、不思議そうに首を傾げていた。  と思えば、ややあって何かに思い当たったかのような声を上げ、眉をひそめる。 「もしかして、それは……昔、道の果てで起こったという、鳴神の災禍(さいか)のことですか?」  鳴神の災禍。  その語を最後に耳にしたのは、果たして何年前のことだっただろうか。  それは都からはるか遠く、道の果てで起きた災いの呼び名だ。  狂った雷神によって、何百もの命が失われた。  真幌のように道の果てに住む者ならば誰もが一度は耳にしたことがあるだろうが、何しろ災禍のあった時から、ゆうに二十数年は経っている。ゆえに都では、そのような災いがあったということすら知らぬ者がほとんどを占めていた。  しかし千景は、その災禍のことをよく知っていた。  いや、「知っている」という言葉は正しくないのかもしれない。  より正確にこの感覚を言い表そうとするならば、「覚えている」という言葉の方がずっと近い。  そう――覚えている。  千景はあの日、あの災禍の記憶を、誰よりも鮮明なままに保持しているのだ。  店主は納得し、頷いた。 「そうか。真幌は、道の果ての巫女だものな。そりゃ、一度くらいは聞いたことがあるよな。あれは、ひどいものだったさ。神様はそりゃあ、俺達にいろんなものを恵んでくださるさ……だが、人なんかが歯向かえるような相手じゃない、恐ろしい存在なんだって、思い知らされたものだ。二度と、同じことは繰り返されちゃならねぇ。もう二度と、な」 「佐吉さん……」 「……ははっ、なんだかしみったれた空気にしちまって、悪かったな。ただ、こいつを持って来たかっただけなんだ。真幌、あんたは前に、これが好物なんだって言ってただろ?」 「あっ。それは、もしかして」  店主が真幌に差し出した皿には、こんがりとした小さな棒状の菓子――かりんとうが盛られていた。作りたてであるのか、皿からはふわりと香ばしい匂いが漂ってくる。  真幌はその皿を受け取るや、ぱぁっと瞳を輝かせる。 「わぁ、ありがとうございます! でも、いいのですか? お団子もこんなにいただいてしまったのに」 「明日の茶会で使うってんで注文を受けて作ったんだ、そいつはその残りだよ。だから遠慮せず食べていってくれ。あぁ、それから、千景さん。あんたも、もしうちの味を気に入ってくれたなら、また来てくれよな」  そう言って、店主は暖簾(のれん)をくぐり、店内へと戻っていく。  後に残された真幌は、かりんとうの皿を大事そうに手に持ちながらも、複雑な表情を浮かべていた。 「佐吉さん、前にご家族を亡くされていると聞いてはいましたが、まさか鳴神の災禍に巻き込まれたせいだっただなんて……」 「最近では知る者もめっきり少なくなった災禍だろうに。だが、貴様も聞き知ってはいたとはな」 「確かに私は、災禍のあった年よりずっと後に生まれましたが……道の果てに育つ者ならば、鳴神に(たた)られた領主様のお話を聞かされます。ですから、私の住む山間では、ほんの小さな子どもだってみんな、この話は知っていますよ。千景さんこそ、災禍のことをご存じだったのですね」 「たとえ道の果ての者でなかろうと、破邪の術を心得る者なら聞かされる話だ。どれほどの力を持とうと、神殺しを(くわだ)てようなどとはゆめゆめ考えることなかれ――そう、(いまし)めるためにな」  我ながら、他人事ではないことをまったくの他人事のようによく言うものだ。千景は心の内でひそかに思う。  あの出来事が今もこうして、道の果てで大事に語り継がれているとは考えもしなかった。  しかし、そうして災禍の恐ろしさを語る誰もが、知りはしないのだ。  鳴神の――そして、鳴神に刃を向け、呪われた領主の恨みは、今もなお息づいている。  いつしか人々の記憶からも薄れ始めたあの災禍は、まだ終わってはいないのだという事実を。
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