3.巫女と悪鬼

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 真幌はしばらくの間、やるせない表情で皿の中身を見つめていたが、やがてかりんとうの一つを指先でつまんだ。口に入れるなり、真幌は目を皿のようにして口元を手で押さえる。指の隙間からは、零れんばかりの笑みが覗いていた。 「あぁ、久しぶりに食べました……やっぱり、お菓子はかりんとうが一番ですね。もう、いくつでも食べられそうなくらいです」  千景はその様を半眼で見遣り、すぐに目をそらした。  はたから見ているだけで胸やけがしそうな光景である。 「そんな甘ったるい物を、よくも幾つも食う気になれるな。俺には到底真似できん」 「あら、甘味(かんみ)はお嫌いですか。でも、こんなふうに、お団子は食べているではないですか」 「団子は別だろう。他の菓子と違って腹持ちがいい」 「そうですか。千景さんも、佐吉さんの作るお団子は美味しいって思ったんですね。それならよかったです」 「そうだな。貴様の作る餅よりかはましな味だ」  そう何気なく返してしまい、まもなく千景は顔を歪めた。  明らかに失言だったと気がついたからだ。  案の定、真幌は空色の瞳を何度か瞬かせるやいなや、ぱぁっと満面の笑みを浮かべて迫ってくる。 「もしかして……この間のお餅、食べてくださったのですか? わぁ、嬉しいです! もしかしたら結局、食べてもらえなかったのではと思っていたので。よろしければまた作りますよ? 空いた時間に料理をするのは好きなんです」 「……いらん。調子づくな、鬱陶(うっとう)しい」  本当に、真幌は大人しそうに見えて、賑やかな娘だった。  よく笑い、うるさくて、鬱陶しくて。  けれどいつしか、真幌の声を耳障りだと言い捨てることができなくなりつつあったことに、千景はかすかな戸惑いを感じ始めていた――  夕刻の空の色は瞬きをするごとに移ろいゆく。  柔らかな飴色を帯びていた空気はいつの間にか淡い紫色に沈み、通りでは道行く者達の提灯の穏やかな光がゆらゆらと揺れていた。 「千景さん。今日は急に呼びつけてしまったというのに、ありがとうございました。お団子、美味しかったですね。まだ桜は咲いていないですけど、一足先にお花見をしたみたいな気分です」  縁台の上の紙包みを持ち上げながら、真幌が上機嫌そうに言ってくる。  包みの中身は先ほどのかりんとう。  どうやら店主が言っていたように、かりんとうは真幌にとって相当の好物らしい。本人曰く、一気に食べるのがもったいないので、持ち帰ってじっくり味わいたい、とのこと。  そうして真幌と千景は、互いに帰路につこうとしたのだが、 「この声。千景さん、今の鳴き声、聞こえましたか?」 「……聞こえたも何も、すぐ傍らに声の主がいるだろう」  そう言い放ち、千景は真幌の足元を視線で示す。  そこにいたのは、身体をぷるぷると震わせる、ちっぽけな黒猫だった。  異様にらんらんと輝く緑の双眸は、物欲しそうに真幌の持つ紙包みを凝視している。  真幌もすぐに察し取ったらしい。  その場にしゃがみ込み、縁台下の陰に身を潜める猫を見つめる。 「そこの猫ちゃん。もしかして、お腹がすいているのですか?」  やがて、その問いに答えるように、猫はみゃあ、と弱々しい鳴き声を上げた。  まさかくれてやるつもりではあるまいな、と千景が思うよりもいち早く、真幌は紙包みを開き、猫の前に差し出した。  先ほど、あんなにも喜色を示して口にしていた菓子だというのに。  明日の修学が終わった後の楽しみに取っておくのだと、声を弾ませて言っていたにも関わらず。  好物を手放すその動作に、迷いや葛藤など微塵もなく。 「美味しいですか? ふふっ、そんなに急がなくても大丈夫、全部あげますから。それにしても、この様子だと、よほどお腹がすいていたのですね」  黒猫はもはや真幌のことなど目にも入っていないというような勢いで、はぐはぐとかりんとうを頬張っている。やがて、黒猫が包みの中身をすっかり平らげ、夕闇の中へ消えていくまで、真幌はその姿を見送っていた。 「呆れるほどにお人好しだな。好物なのだろう。すべてくれてやることはなかっただろうに」  真幌は苦笑しながら、残された空の包みを拾い上げて言った。 「あんなにお腹を空かせた猫を見てしまったら、放っておくなんてできませんよ。それに、いいんです。あのかりんとうは、私よりあの猫の方が必要だったんです。だから……好物を(あきら)めることくらい、なんてことはありませんよ」  その言葉を聞いた瞬間、千景の脳裏にふと、一つの光景がよぎった。  晩冬の風吹く夕暮れ時。  それは、今となってはもはや遠く、古い記憶の、わずかな断片。 「……貴様も、いつかの娘と似たようなことを言うのだな」  かすかなその呟きは、真幌の耳には届くことなく、提灯片手に語らい歩く人々の声に()き消されていった。
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