3.巫女と悪鬼

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          *  その日の夜。  都の南西地区。  店屋の並ぶ通りの脇、土手下にある川原では、とある父子が水面に釣り糸を垂らしていた。  すでにすっかり日は落ち、周囲は夜の闇に満ち満ちているが、傍らに置いた提灯のおかげで川面は橙色に照らされている。 「あっ。……だめだぁ、逃げられちゃったみたいだ」  まんまと釣り餌だけをかっさらわれ、少年はがっくりと肩を落とす。 「おいおい、そんなに急いて引っ張ってはいけないぞ。ほら、釣りってのは、こんなふうにするのさ」 「わぁ、ほんとに釣れた……! しかも、大きいよ。これは何の魚なの?」  父親があざやかな手つきで釣り上げた魚を、少年はしげしげと眺めた。  目を輝かせ、頬を紅潮させる少年に、父親は川虫を釣り針に取りつけながら教えてやった。 「これはなまずだ。このくらいの季節になると、また釣れるようになるのさ。ほら、お前も、諦めずにまたやってみな」 「うん、わかった。こうやって、川虫をつまんで……」  まだ釣りに慣れず、のたうつ川虫を手で捕まえるのにさえ苦心している息子を、父親は釣りの片手間に見守っている。  父子の住む家は古くから商いをしていた。  この父子にとっては、昼の商いを終えた後、こうして祈依川のほとりで夜釣りをするのが習慣であり、楽しみであったのだ。 「できた! よし、じゃあもう一回」  そう意気込み、子が釣り針を水面に放るのを見ていた父だったが、次の瞬間、息を呑み凍りついた。  嬉々としていた子であったが、すぐに父の異様さに気がつき首を傾げる。 「どうしたの? 父さん。……父さん?」  子は、驚愕した。  それは、あっという間の出来事だった。父の身体がみるみるうちに黒い斑点(はんてん)に覆われていったのだ。白紙に墨汁が染み渡るように、斑点はじわじわと広がっていく。 「父さん、父さん! どうしたんだよ!」  何の前兆もなく、目の前で起こり始めたおぞましい出来事に、子は半狂乱になって声を上げる。しかし父から声が返ってくることはなかった。父はそのまま掠れた(うめ)き声を一つ漏らしたかと思うと、まもなくぐらりと大きく揺れ、水飛沫を上げて川面へと崩れ落ちていく。  そしてその時、子はやっと目の当たりにしたのだ。  沈みゆく父、その胴に、腕に、足に、不気味にのたうつ黒い触手が巻きついていることに。  ようやく事態を理解するなり、子は、背筋を悪寒が駆け上っていくのを感じた。信じられなかった。  都を流れる川は天涛大神(あめなみのおおかみ)そのもの。  すべての穢れを祓う、聖なる流れ。  そのはずなのに。  けれど、今、そうではなかったのだと子は知ったのだ。  邪気に意思を乗っ取られ、悪神怨霊と化した化け物が、祈依川に潜んでいたのだから。  しかし、それでもなお、子は恐怖を振り切り、果敢にも川面に飛び込んでいく。 「だめだ! 父さんを連れて行くな! 化け物め……あっちへ行――!?」  言葉は最後まで続かなかった。  川底から何かがむくむくと湧いてくる。  これは、水の冷たさではない。身体を内奥から冷やしていくような、凄まじい寒気が子の足元から這い上がってくるのだった。 「あ……嫌だ、離れろ、僕から離れろ!」  そうして子は、もはや取り返しのつかない過ちを犯したことを身をもって知った。  父を川底へと引き込んだ触手は、子の手足を拘束し、さらには首元にまで絡 みついてくる。  息ができない。  泥水を浴びたのと呼吸がままならないのとで、子の視界が黒く霞んでいく。 「あ……あぁ……あ……! だ、誰、か……あ、あ……」  しかし子の声は、誰の耳に届くこともなく。  子の耳元で、激しく水の逆巻く音がする。  黒く濁り、氾濫した川の水の前に、父子の身体は木くずにも等しく、彼らは成す術もなく呑み込まれていった。  そうして、父子の命を糧としたかのように、先刻までは穏やかだった川の水は巨大な流れを形作り、波打ち、膨れ上がり、周囲の土手さえも難なく駆け登っていったのだった。  その夜、祈依川から大水とともに現れた邪霊は、川沿いにあった店屋を次から次へと蹂躙(じゅうりん)した。夜更けだったこともあり、逃げ遅れた多くの人々の命が一瞬のうちに(つゆ)と消え果てた。  火急の知らせを受け駆けつけた神官達により浄めの儀が行われるも、邪霊を完全に鎮めるまでには夜が明けるまでの時がかかった。その上、神官達にも多数の犠牲者が出たという。  それは、都で頻発していた邪霊による災いの中でも、抜きんでて多くの死者を出し、都を震撼させた事変だった。  そしてこの日を境に、璃久扇には暗雲が立ち込めていく――。
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